却来華の軌跡
 

AI時代からの考察:「18世紀の英国で産業革命が起きた訳とは」[第7回]~2020年8月号

 明治の初め、新しい日本と自らの前途に不安を抱いていた多くの青少年に希望の光明を与えた二大啓蒙書がある。
 一つは有名な福沢諭吉の「学問のすすめ」(明治5年)だ。
 もう一つは「西国立志編」(明治4年)であり、百万部以上売れたらしい。原典はサミュエル・スマイルズの「自助論」で、さまざまな階層での成功者の実例を多数挙げて集大成したものだ。1859年に英国で発刊されベストセラーとなり世界十数カ国語に翻訳された。日本では、英国留学を終えて帰国した中村正直が翻訳した。
 この「自助論」に先立ってスマイルズが執筆したのが「スティーヴンソン伝」だ。炭鉱夫から「鉄道の父」となる成功譚が人気を得たことで自信をもち、「自助論」の執筆となったそうだ。今回はスティーヴンソンの生涯を辿る。

1.仕事をしながら炭鉱の技術習得へ

(1)8歳から生活費稼ぎ
ジョージ・スティーヴンソン  ジョージ・スティーヴンソン(1781~1848)はイングランド北部のノーサンバーランドのウィラムで4男2女の次男として生まれた。ウィラム炭鉱で揚水工として働く父親の賃金では家が貧しく、彼は学校へ行くことが叶わず8歳から炭鉱で働き始める。といっても石炭から異物となる石などを取り除く「ピッカー」という仕事で1日僅かな手当であった。少しでも条件の良い職を求めて頻繁に働き場所を変え、17歳の時ウォーター・ロウ炭鉱で「最新の蒸気機関の作業員」(排水機関の機関士)に採用される。そこでの仕事ぶりが認められ、同じ炭鉱で働く父親より手当が多くなってしまう。しかし、読み書きができなかったので、18歳から夜学で読み書きと算術の勉強を始める。
 貧乏で学校に行けなかったので、あらゆる機会を利用して知識習得に努力するのだが、地元のノーサンブリア訛りが終生抜けず、論理的な説明は不得手であった。書くのもずっと苦手で、手紙の文章は息子か秘書に任せていたらしい。

(2)20歳で結婚、長男ロバート誕生
  1801年に20歳でドーリー炭鉱へ移り、巻揚げ機の操作と保守を担当する「制動手」になると賃金も週1ポンドに上がる。そして富裕な農場経営者の娘エリザベスと恋に落ちるが、炭鉱夫に娘はやれないと彼女の父親から反対され結婚を諦める。次に炭鉱の宿舎で賄いをしていたアンに求婚するが、失恋。結局自分より13歳年上のアンの姉フランシスと結婚する。結婚までの紆余曲折はあったが、妻フランシスとの生活は幸せで1803年に息子のロバートが生まれた。
 その頃、趣味であった時計や靴の修理を副業にする。機械いじりの才能があったのか、特に時計の修理には定評があった。1804年にキリングワースへ移りウェスト・ムア炭鉱の制動手となる。

2.不幸にめげず技術者としての才能開花へ

(1)試練の時 家族の死と父の失明
 1805年に生後間もない長女を亡くし、翌年には妻のフランシスが肺結核で死去した。3歳の息子ロバートの世話は未婚の妹エリーナに頼るしかなかった。
 そんな時に自身の父親が炭鉱のボイラー事故で失明してしまい、仕事ができなくなる。さらに彼が命じられた対仏戦争の兵役を他の人に代わってもらうために大金を投じたことや、面倒を見ることになった父親の借金清算もあり、貯金を使い果たしてしまう。途方に暮れ、一時は北米への移住を検討するが、一人息子の将来とこれまで築いた機械工の経歴を大事に考えて思いとどまる。そして、蒸気機関の建造技術を懸命に磨くために、炭鉱で機械を止めている毎週土曜日に蒸気機関の分解組み立てを繰り返した。

(2)貪欲な技術の修得意欲とチャンス到来
 1811年、グランド・アライアンス社は炭鉱にニューコメン式蒸気機関を新規に設置したが、故障を繰り返した。誰も修理できず、頭を抱えた会社は報奨金10ポンドで改善策を募った。スティーヴンソンが必死に磨いてきた技術力を発揮するチャンスが到来する。
 故障の原因を冷水の噴射装置の不備と見抜いたスティーヴンソンが見事に蒸気機関を修理したので、喜んだ会社は彼に報奨金を与えただけでなく、会社が多数保有する鉱山すべての機械設備の責任者に任命した。彼の収入は年間100ポンドの高給となり、遠距離出張用の馬も贈呈されたらしい。技術者スティーヴンソンの誕生である。

3.蒸気機関車建造への挑戦

(1)第1号蒸気機関「ブリュッヘル号」
 スティーヴンソンはその後も自らの技術をさらに磨き、固定式蒸気機関などの製作を始めた。そして、トレヴィシックなどの蒸気機関車に刺激されて、いよいよ蒸気機関車の製作に入る。製作に必要な資金は会社のリデル准男爵やレーブンズワース卿など資産家が支援してくれた。
 自宅近くのウェスト・ムア炭鉱の作業所で、仕事の合間を縫って蒸気機関車の製作を開始し、彼にとって第1号となる蒸気機関車「ブリュッヘル号」を1814年に完成する。
 翌年に「ブリュッヘル号」は、キリングワースの軌道を総重量約30tとなる貨車を引いて平均時速約6kmで走行した。従来のトレヴィシック型に比べると牽引力が弱かったが、実用性、経済性においては問題なかった。彼はその後も懸命に改良を重ねて騒音や圧力不足という課題を解決し、石炭輸送目的の蒸気機関車を数台製造した。

(2)息子ロバートへの教育投資
 無学で苦労したスティーヴンソンは、息子ロバートにはしっかりとした教育を受けさせたいと考えて、ロバートが12歳になった時、ニューキャッスルの名門カレッジ「パーシー・ストリート・アカデミー」に入学させた。労働者階級の彼にとって、中産階級が通う有名校は高嶺の花であったが、息子のためと思って高い学費も何とか工面した。しかも、息子ロバートが学校から帰宅すると、その日習ったことを親子で長時間復習していたらしい。スティーヴンソンは学校の授業を息子となぞることで、自分に足りない知識を補っていたのだ。知識習得に対すジョージ・スティーヴンソン る彼の努力は尊敬に値する。
 愚鈍な印象を与える労働者階級特有の自分の訛りについて、スティーヴンソンは強い劣等感を抱いていたようだ。しかし、息子ロバートは名門校に行くことで、学問を習得するだけでなく、ノーサンブリア訛りが次第に取れていった。

4.ヘットン炭鉱軌道の成功と初恋の人との再婚

 1814年以降、多くの蒸気機関車の製造に関わったスティーヴンソンはヘットン炭鉱から石炭運搬用軌道13km敷設のために1819年に技師として招かれた。
 ヘットン炭鉱は英国で最大の出炭量がありながら、輸送コストが高いのがネックであった。輸送コスト改善のために、新たな軌道敷設が計画された。自走する蒸気機関車と急斜面用で車両を牽引する固定式蒸気機関を併用する方式で進められ、技師スティーヴンソンの主導のもとで完成まで2年を要した。当時の蒸気機関車のパワーでは急斜面を登ることができず、ケーブルカーのようにロープに繋いだ車両を固定式蒸気機関による巻揚げ機で牽引する必要があった。
 1822年の開通時には総重量84tの貨車17両をつないだ蒸気機関車が平均時速約6kmで走行した。その時の走行の様子は新聞で報じられ、スティーヴンソンの名前が世に知られるようになる。また、この軌道のおかげでヘットン炭鉱は生産性が高まり、炭鉱の業績は大きく改善したようだ。
 ちなみに、1820年にスティーヴンソンは再婚するのだが、なんと相手は父親の反対で諦めた初恋の人エリザベスであった。彼女は一途にスティーヴンソンのことを思って他の誰とも結婚せず未婚のままだったのだ。二人は結婚して幸せな家庭を築くが、子供には恵まれなかった。

5.ストックトン・ダーリントン鉄道

(1)運河派vs.馬車軌道派そして法案成立
 スティーヴンソンの知名度をさらに全国区にあげたのが、ストックトン~ダーリントン間での鉄道の建設だ。
 その頃、ダーラム南西部の炭鉱ダーリントンから東部にあるティーズ川河口の町ストックトンの40kmを結ぶ石炭運搬用の交通手段が検討されていた。当初は、当時主流であった運河での輸送が検討されたが、莫大な費用がかかるので計画が立ち消えとなっていた。その運河計画が1818年に再浮上するが、あわせて馬車軌道建設案も提示された。ストックトン側は運河建設の推進、ダーリントン側は馬車軌道の推進となって意見が分かれて対立するが、最終的には馬車軌道建設推進側が優勢となった。
 建設のためにストックトン・ダーリントン鉄道会社が設立され、鉄道建設の法案が議会に提出されるのだが、路線を通過する地主からの強力な反対によって法案は廃案となってしまう。しかし、会社設立メンバーの一人である実業家エドワード・ピーズが中心となって議会や地主対策に金も努力も惜しまず精力的に活動したおかげで、三度目の法案提出で無事成立の運びとなった。
 その直後にスティーヴンソンはピーズに自らの主任技師への採用を売り込みしたようだ。

(2)会社設立と蒸気機関車導入への計画変更
 当初は馬車や固定式蒸気機関を利用する計画であったが、蒸気機関車の導入を目論むピーズはヘットン炭鉱軌道で有名になったスティーヴンソンを主任技師に採用する。1821年にピーズがストックトン・ダーリントン鉄道会社の社長となり、会社の創立総会を開催すると、蒸気機関車を導入するためにさまざまな工作をおこない、開業直前に蒸気機関車を利用する計画へ変更することに成功する。
 計画変更により内容の早急な見直しが必要となったが、この鉄道の建設資金は主にピーズ社長をはじめとするクエーカー教徒の人脈からの出資によって賄われた。また、計画変更に伴う路線の測量にアカデミーを卒業したばかりの息子ロバートが加わっている。
 ロバートには1822年に化学や地質学などの習得のためエジンバラ大学の短期コースに入学させている。ここでも、大学入学はロバートのためだけでなく、アカデミーの時と同じようにスティーヴンソンが化学や地質学の知識を習得する狙いもあった。大学で習ったことを親子で毎日貪欲に復習していたのだろう。こうした不断の努力が実って鉄道事業にも役立つことになる。
 また、工事が開始されると、スティーヴンソンはこの路線のレールの形状や蒸気機関車走行の安全面を配慮して路線の3分の2には鋳鉄より頑丈な錬鉄製レールを、そして残りの部分は鋳鉄製レールを採用することに決定した。

(3)蒸気機関車製造会社の設立と鉄道開業
ロコモーション1号  蒸気機関車の製造が近い将来一大産業になると読んだスティーヴンソンは、1823年に蒸気機関車製造の専門会社「ロバート・スティーヴンソン社」を設立する。そして、翌年には、ストックトン・ダーリントン鉄道会社から蒸気機関車2両を受注した。
 1825年にストックトン・ダーリントン鉄道の開通式がおこなわれ、終点のストックトンには4万人もの人が集まった。これまでにない大規模な公共交通鉄道であり、新聞にも大きく取り上げられた。「ロバート・スティーヴンソン社」が製造した重量8tの「ロコモーション1号」は約300人を乗せた客車26両と石炭を積んだ貨車12両を引いて時速19~26kmで走行した。最高速度は39kmに達したが、急勾配では依然としてパワー不足の蒸気機関車を補う固定式蒸気機関による牽引力が必要であった。
 この鉄道は乗客も乗せたが、あくまで石炭輸送など貨物輸送が中心であり、開業後しばらくは石炭輸送が収入の9割を占めた。
 また、この鉄道ではスティーヴンソンが軌間1435mmの錬鉄製のレールを採用したが、この1435mmのサイズがその後、世界の標準軌道間となる。
 スティーヴンソンは、この鉄道の成功で全国的に知名度が上がり、各地の鉄道建設計画への助言者として引っ張りだことなった。

6.リヴァプール・マンチェスター鉄道

(1)産業革命の進展に対応できない物流手段
 19世紀当時、産業革命の中心地マンチェスターは綿繊維や機械工業の一大集積地を形成し、港湾都市リヴァプールはロンドンに次ぐ代表的な港湾都市となっていた。
 産業革命の進展とともに物流量が急増して、従来の運河・河川・ターンパイク(有料道路)だけでは輸送をカバーできなくなっていた。しかも両市を結ぶ従来の貨物輸送手段は運賃が高い割に輸送スピードが遅かった。特に河川や運河を利用する水上輸送は、夏の渇水、冬の凍結の場合には運航不能となる欠点があった。

(2)鉄道会社の設立と鉄道建設計画の難航
 商工業者は不便で値段の高い既存の輸送業者に不満をもち、考え出したのがリヴァプール・マンチェスター鉄道計画であった。
 1824年に設立されたリヴァプール・マンチェスター鉄道会社から主任技師に招聘されると、スティーヴンソンはその役職への就任を受託した。ちょうどその頃は、ストックトン・ダーリントン鉄道が完成間近で、そこの主任技師であるスティーヴンソンは多忙であったにもかかわらず、全国的に知名度が上がった自分に白羽の矢が立ったことからリヴァプール・マンチェスター鉄道会社の主任技師を掛け持ちした。
 その頃でも依然として、世の中の蒸気機関車への理解は低く、地主や農場主は煙突が発する火の粉の火災や騒音による家畜への健康被害を心配していた。そのため、路線の農場経営者や地主の激しい反対運動にあい、1825年に鉄道建設の法案は却下されてしまう。会社側は法案が却下されたことをス ティーヴンソンの責任とした。ノーサンブリア訛りのスティーヴンソンの拙い答弁能力では議会での厳しい質問の応酬に耐えられなかったと判断したのだ。階級意識の強い英国ではスティーヴンソンに対して労働階級出身の野卑な人物という差別意識も根底にあったようだ。この結果、スティーヴンソンは主任技師を解任されてしまう。

(3)法案再挑戦と主任技師への返り咲き
 二度目の法案を通すため、会社は父親の高名さを見込んで、多くの運河・橋の建設で名を馳せた土木技師の子息レニー兄弟を主任技師に招くことにする。この兄弟は鉄道の専門家ではなかったが、彼らの父親の知名度の高さは効果があったようだ。鉄道推進派の綿密な法案への準備と関係者への根回しもあり、無事に法案が通過した。
 1826年にリヴァプール・マンチェスター鉄道会社の第1回の株主総会を開催し、スティーヴンソンを再び主任技師に戻すことにした。議会対策のため、やむなくレニー兄弟を主任技師にしたが、鉄道建設には、叩き上げの実務家である彼の力が必要であると会社は考えていたのだ。スティーヴンソンは期待通り、建設にあたっての難関を解決していく。
 まず、工事の難航が予想された湿地帯でのレール設置。「チャットモース」と呼ばれる湿地帯は試行錯誤の連続であったが、膨大な量の木材などを束ねた上に石や土を投入して路床を固めることで最終的には成功した。蒸気機関車が安定走行するには、路線を出来るだけ水平に建設することが望ましいので、3つのトンネルと46の橋梁も建設した。
 工事の進展とともに、工事費が嵩み、資金不足が明らかとなるが、大蔵省からの借入や追加増資により無事資金調達する。増資については株主からの絶大な支持を得て、ほぼ全額引き受けられた。
 こうして軌道の建設は幾つもの難関を乗り越えて順調に進んだ。

(4)レイトンヒル公開競争でロケット号勝利
ロケット号  傾斜地では蒸気機関車がパワー不足になりがちなので、従来から固定式蒸気機関の牽引力をケーブルカーのように利用していた。この鉄道についても、一部の技術者の中から、部分的に固定式蒸気機関を動力に採用すべきとの意見が出る。蒸気機関車の性能に自信のあるスティーヴンソンは蒸気機関車のみの採用を強く主張する。
 鉄道会社の社内でも意見が分かれ、どちらを採用するか決定するために、500ポンドの懸賞金を付けて一般公開競争を開催する。公開競争では機関車の時速、エンジンの重量、建造費など競争の条件を定めて、参加する蒸気機関車を公募した。
 1829年のレイトンヒルでの公開競争には4社の蒸気機関車が参加する。「ロバート・スティーヴンソン社」は、息子ロバートが中心となって製造した蒸気機関車「ロケット号」を出場させた。「ロケット号」は強力なライバルを物ともせず、指定平均時速16kmを上回る19kmで往復約6時間かけて走行し、完勝するのであった。その快走を見た蒸気機関車の反対派が「ロケット号」の性能に感動して、蒸気機関車推進派に回ることになったそうだ。

(5)鉄道開業と世界初の鉄道死亡事故
 1830年にリヴァプール・マンチェスター鉄道は8両の蒸気機関車を所有して営業を始める。鉄道時代の幕開けである。
 開業式には首相のウエリントン公爵をはじめ、著名人が多数参列した。その開業式でハスキンソン商務大臣が蒸気機関車に轢かれて事故死するという不幸な事件が起きる。乗客たちは給水と給炭のために停車していた車両から下車して、危険と警告されていたにもかかわらず反対側のレールの上で休憩していた。そのうち反対側の線路に近づいてきた別の機関車に気付くのが遅く逃げ遅れたハスキンソンは蒸気機関車に轢かれて死亡してしまったのだ。
 不幸な死亡事故はあったが、開業後の鉄道事業は順調に推移する。リヴァプール~マンチェスター間での仕事は日帰りで済ませることが可能となって、鉄道会社にとって輸送時間、輸送コストとも半分となった。鉄道は従来の貨物輸送中心から乗客輸送へ移行することになる。1831年の時点で乗客による収入が全体の65%を占めた。リヴァプール・マンチェスター鉄道は経営的にも成功して株主に高い配当が出せるようになった。

(6)大量かつ高速の乗客輸送で鉄道ブームへ
 この鉄道は高速で大量の乗客を運ぶという新たな市場を切り開き、その後の鉄道ブームに繋がる。
 その後二人目の妻エリザベスが1845年に死去すると、スティーヴンソンは64歳で現役を引退する。それまで海外を含め、あらゆる鉄道計画に関与した。1848年に67歳で三度目の結婚をするのだが、その年に自宅で肋膜炎のため死亡した。
 スティーヴンソンの一生を眺めてみると、かなりの勉強家、忍耐強い努力家であったことが分かる。彼をサポートした息子ロバートの存在も大きい。鉄道建設には地元の支援、幅広い資金調達、優れた技術陣の3つが必要と言われるが、それらに対応する才覚も備えていたようだ。
 炭鉱夫から苦心の末に鉄道の父となったスティーヴンソンの生涯をもとに執筆されたスマイルズの「自助論」の精神、すなわち「どんな階層の者でも自助・勤勉・忍耐さえすれば成功への道が開かれており、社会の発展に貢献できるのだ」という内容が万民に受け入れられたのも頷ける。
 次回は、鉄道網の進展で変化したライフスタイルに触れたい。

追記:炭鉱用安全ランプの発明と屈辱

 炭鉱では掘削の過程で炭化水素系の可燃性ガスが発生し坑内に漏れ出すことがある。そのガスに暗い坑内を照らすために持ち込んだランプの火が引火して爆発する事故が頻繁に起きていた。
 そのガス対策として、英国を代表する科学者ハンフリー・デーヴィーとスティーヴンソンが偶然にも同じ1815年に鉱山の安全灯を発明した。
 デーヴィーの安全灯はランプの芯の周りに鉄製の細かい金網をめぐらせたもの。そしてスティーヴンソンのものは多数の穴の開いた金属製の筒をランプの芯の周りに用いたものであるが、基本構造は双方同じであった。万一ガスが発生して、ランプの火が引火しても鉄の金網が火炎の熱を吸収するとともに、火炎は金網の小さい穴から金網の外へは出ていかず、外のガスには引火しない仕組みらしい。
 科学知識を活かした者と経験から発想した者の違いであったが、デーヴィーは「スティーヴンソンのような無学な人間に発明できるはずがない。私のアイデアを盗用したのだ」とスティーヴンソンを告発する。数年後にスティーヴンソンの盗用疑惑が晴れても、デーヴィーは死ぬまで納得しなかったらしい。
 この発明では、感謝した鉱山主がデーヴィーにお礼として2000ポンドを贈呈したが、スティーヴンソンには105ポンドしか贈呈されなかった。それを不憫に思った鉱山会社や仲間がお金を募って彼に1000ポンドを贈呈している。
 経験から仕組みを理解したスティーヴンソンにとって、デーヴィーによる盗用の告発は屈辱的だったと思われる。こうした事件もあって、一層自ら勉学に励み、息子への教育熱が高まったのかもしれない。

 

AI時代からの考察:「18世紀の英国で産業革命が起きた訳とは」[第6回]~2020年7月号

 日本では明治5(1872)年に新橋~横浜間で鉄道が開業した。当時の明治政府は鉄道発祥の英国から技術導入や資金調達をおこなった。日本の技術水準では自力製造できなかったので、英国人の鉄道技師エドモンド・モレルを招聘のうえ、英国製の車両を投入するなど全面的に英国の技術力に依存したのである。
 今回は、その英国において蒸気機関が鉄道など輸送分野に広まっていくまでの過程を辿る。

1.輸送手段の変遷
(1)人・馬・運河・ワゴンウェイ
 17世紀までは人や馬が直接荷物を担ぐ運搬方法が一般的であったが、未整備の陸路では輸送量に限界があり、壊れやすい物を安全に運ぶことが難しかった。特に鉱山では重量のある石炭などを運搬するので、大きな負担となっていた。そこに石炭を運ぶ新しい輸送手段として、ワゴンウェイ(貨物軌道)が生まれ、イングランド中に普及する。ワゴンウェイとは木製レールの上を馬が牽引して運搬する手押し車だ。馬1頭で7両の貨車(6t以上)が牽引可能となり、経費と時間は節約された。しかし、木製のレールは耐久性がなく1~2年で交換を要した。1738年にようやく鋳鉄を一部利用したレールが登場し、1750年代頃になると鋳鉄板を取り付けたレールが一般化して運搬できる量がさらに増大した。
 また、1759年にブリッジウォーター卿によって建設された初めての近代的な運河が商業的に成功する。それを機として全国に運河網が拡がっていく。運河も重量のあるものを安全に運ぶのに適していたのだ。こうして従来からの陸路や河川に加えてワゴンウェイや運河などの交通網が発達した。

(2)世界初の公共馬車鉄道と馬の値段の高騰
 1803年に世界最初の馬車鉄道会社である「サリー鉄道」が誕生する。鉱山の輸送に活躍したレールが道路にも設置され、公共の輸送手段として利用されるようになったのである。一般の利用者から利用料を徴収して貨物のみを輸送するものだ。レールを敷設することで運搬の大敵である振動を抑えることができた。クロイドン~ワンズワース間の約9.5マイルを1頭の馬が4両の貨車を引いていたらしい。
 サリー鉄道の開通と同じ1803年にナポレオン戦争が勃発する。軍役で数百万頭の馬が必要となったことで、馬の利用コストが急激に上がり、馬の代わりとなる動力が必要となってくる。それにより蒸気機関車への開発ニーズが高まったのである。ジェームズ・ワットの蒸気機関の特許が1800年に失効して、新たな開発に遠慮なく取り組める環境となったこともあり、さまざまな発明家がこの分野に本格参入するようになる。
 その開発者のなかで1804年に軌道上を走る蒸気機関車を世界で初めて発明し、蒸気機関車の父と呼ばれたトレヴィシックの苦闘と挫折の生涯を取り上げる。

2.蒸気機関車の父 トレヴィシック
(1)生い立ち
 リチャード・トレヴィシック(1771~1833)はイングランド南西部コーンウォールで生まれた。
 身長188㎝の大男で逞しい体躯の持ち主だったので「コーンウォールの巨人」と呼ばれたそうだ。
 彼の父親は鉱山の技術者として蒸気機関の導入と管理を担当していた。トレヴィシックは初等教育しか受けていなかったが、機械の知識が豊富な父親の影響でモノづくりに関しては抜群のセンスがあった。蒸気機関車を建造する才能に恵まれ、機械の効率性を向上させる数多くの技術革新をもたらすのであった。

(2)トレヴィシック親子とワットの特許妨害
 コーンウォール地区では、高圧蒸気機関の開発が急速に進んでいた。彼の父親は利用中のワット型機関を高圧蒸気機関に改良しようとしていたが、それを察知したジェームズ・ワットは高馬力の高圧蒸気機関は危険だとして開発を阻止しようとする。しかし、トレヴィシックは1795年に父親の支援も得て独自に高圧蒸気機関を製造する。当然、ワットと共同事業者のボールトンは特許権の侵害だとして彼に使用差し止めを請求したが、シリンダーの上下を逆にして作り直すことで特許に対抗したようだ。
 その後も、トレヴィシックは高圧蒸気機関の開発に取り組む中で、長きにわたってワットからの執拗な妨害に悩まされることになる。ワットは自分の特許に関わる新たな開発を常時監視し、特許侵害の訴訟や妨害工作に余念がなかったらしい。実際、多くの技術者がワットの強い妨害にあって蒸気機関の改良を断念していた。

3.蒸気自動車の製造と挫折
(1)蒸気自動車「パッフィング・デヴィル号」
 トレヴィシックは蒸気機関車に先立って蒸気自動車の開発に取り組む。その端緒となったのは、近所に住むウィリアム・マードックとの出会いだ。
 ワットに内緒で蒸気自動車を試作していたマードックから蒸気自動車の試作品を見せてもらったのだ。ちなみにマードック自身はボールトン・ワット商会の従業員だったので、ワットの猛反対に遭い蒸気自動車の開発を断念している。
 その後、トレヴィシックはワット型蒸気機関の5分の1サイズの小型化の開発に成功したことから、蒸気自動車の試作に取り組み、完成させる。その蒸気自動車を「パッフィング・デヴィル号」と名付けて、世界初となる蒸気自動車のデモンストレーションを開催した。1801年のクリスマスイブにカムボーンの道路で7、8人を乗車させて走らせた。ひとまず走行に成功するのだが、1週間後には車輪が轍にはまって蒸気自動車が転倒してしまった。そのうえ、過熱でボイラーの水が干上がったのに気付かず、蒸気自動車が火事になるというお粗末さだった。

(2)蒸気自動車「ロンドン蒸気車」
 1803年には2年前の「パッフィング・デヴィル号」では十分でなかった蒸気圧を改良した新たな蒸気自動車「ロンドン蒸気車」を製作する。この蒸気自動車は蒸気を噴き上げ、馬を怖がらせながらロンドンやその郊外の通りを順調に動き回ったのだが、結局は道路状況の悪さが災いして車台枠がねじれてしまった。また馬車よりコスト高で乗り心地も悪かったので、蒸気自動車は世間の興味を引かず、支援者たちの期待を裏切ることになる。
 これを機に道路を走る蒸気自動車からレールの上を走る蒸気機関車の開発に軸足を移すことになる。

4.高圧蒸気機関の特許取得と死亡事故
(1)高圧蒸気機関の特許取得
 若干時は遡るが、トレヴィシックは二度目の蒸気自動車が失敗する前年の1802年に「蒸気機関建造に関する改善方法と自走馬車とその他の目的に関する申請」という特許を取得している。特許を世の中に認めてもらうには実物を見せて納得させる必要があると考えた。そこで、すぐに高圧蒸気機関を製造し、性能の良さを立証したのである。完成した蒸気機関では毎分40回のピストン運動が可能となった。その性能が評価されて、同じ1802年にペナダレンで鉄工所を経営するサミュエル・ホムフレイから高圧蒸気機関の製造を受注する。そして出来上がった蒸気機関を貨車の台車に載せて蒸気機関車のように動かしてみせると、ホムフレイは感激してトレヴィシックの特許を買い取った。さらにホムフレイは鉄の運搬用として興味をもっていた蒸気機関車の開発支援も約束した。

(2)グリニッジの死亡事故とワットからの非難
 ところが、これから本格的に開発という時に事件が起きた。翌1803年にトレヴィシックがグリニッジに設置した固定式高圧蒸気機関のボイラーが爆発して、4人の死者を出すのだ。
 彼は原因を担当者の不注意による操作ミスとしたが、ワットとボールトンは高圧蒸気機関の危険性を裏付ける証拠として厳しく糾弾し、法律での規制を議会に提案した。ワットは自分の発明した蒸気機関が危険な代物と思われることを恐れていたのだ。実際、高圧蒸気機関は直接高圧の蒸気がボイラーに掛かるので、強度不足のボイラーでは耐え切れず爆発事故が多発した。その後、トレヴィシックは危険防止のために、ボイラーに2つの安全弁と水銀を利用した圧力計を設置したのだが、頑丈な鋼鉄製のボイラーが完成する19世紀後半まで危険なボイラーという悪評が続いた。

5.蒸気機関車の試作と挫折
(1)世界初の蒸気機関車「ペナダレン号」の賭け
ぺナタレンの蒸気機関車  ホムフレイの支援で蒸気機関車を開発していた1804年に面白い賭けがおこなわれた。「蒸気機関車推進派ホムフレイ」対「蒸気機関車反対派クローシェイ」の対決である。
 蒸気機関車を馬鹿にするクローシェイが「10tの鉄を載せて蒸気機関車がペナダレンからアベルカノンの約16㎞の距離を往復できるか」という賭けをホムフレイに仕掛ける。ホムフレイの命をうけたトレヴィシックは挑戦を受けて立った。現在の価値に換算すると10万ポンド近い大金を賭けた「ペナダレン号」の走行は1804年に実施され、大勢の群衆が集まった。自信満々のトレヴィシックは10tの鉄に加えて70人の人間をペナダレン号の5両の車両に乗せて最高時速8㎞で走行した。蒸気機関車がレールの上を走った世界初の記録となったのだが、当時の脆い鋳鉄のレールではこの重量に耐え切れなかった。途中で破損して走行不能となり、帰路は馬の助けを借りて戻る有様であった。しかし、この走行を評価したウィラム炭鉱の経営者クリストファー・ブラケットから第2号の蒸気機関車の製造依頼を受けることになる。

(2)「catch-me-who-can号」の公開と失敗
catch_me_who_can ロンドンでのデモンストレーションの様子  トレヴィシックは度重なる失敗に挫けることなく、動力伝達を歯車式から連結棒で駆動するロッド式に換えた第3号の蒸気機関車を1808年に製造した。そして広告と娯楽を兼ねた一般公開を思い付き、新聞に「蒸気機関車と競争」の見出しで広告を打った。「catch-me-who-can」(捕まえられるものなら、捕まえてごらん)という機知にとんだ機関車の名前はイベントの資金スポンサーであるギルバートの妹フィリッパが付けた。ロンドンで鋳鉄製のレールを円形に敷いて周りを高い塀で囲み、入場料1シリングで約2カ月間公開した。最高時速は19㎞に達し、蒸気機関車が馬より速いことは実際に立証できたのだが、相変わらず事故や爆発を怖がって蒸気機関車に乗る人はほとんどいなかった。ここでもまた鋳鉄製の脆いレールの破損によって蒸気機関車の脱線や転覆が起きて、たびたび走行が中断したらしい。

(3)その後のトレヴィシックの人生
 この一般公開が商業的に大赤字になった影響なのか、トレヴィシックはこれ以降蒸気機関車の開発への関心をなくしてしまう。腸チフスに罹ったことや、引退したワットからの嫌がらせに嫌気が差したことなどが原因とも言われている。その後、彼は1816年に単身で南米に行き一獲千金を狙って銀鉱山の開発に賭けるのだが失敗し、1827年に無一文となって英国に戻り、1833年に貧困のまま息を引き取った。
 彼の失敗の原因は回転のムラや歯車の破損など蒸気機関車本体の問題もあったが、蒸気機関車の重量に耐え切れない当時の鋳鉄製レールの脆さが大きく影響した。レールの問題が解決されるのは1820年代であり、その頃にようやく頑丈な錬鉄製レールが登場するのである。
 またトレヴィシックの蒸気機関車は当時として優れたものであったが、野心家でマイペースな彼には事業を成功するために周囲の人々の協力を取りまとめていくマネージメント能力が足りなかったようだ。

(4)トレヴィシックの孫たち
 余談だが、トレヴィシックの孫二人がお雇い外国人として明治期の日本の鉄道発展に貢献している。孫二人が技術者として別々に来日し、蒸気機関車の製造に携わった。ともに10年以上滞在し、日本人の妻を迎えている。一人は国産初の蒸気機関車AE形の製造に、もう一人は信越本線の横川~軽井沢間のアプト式鉄道(急勾配の線路を登り昇りするための鉄道)の導入に携わった。

6.英国鉄道の父 スティーヴンソンの登場
 英国では、トレヴィシックが開発を断念した後も蒸気機関車の開発は進み、蒸気機関車による鉄道網が発展するとそれまで隆盛を極めた馬車鉄道や運河が時代遅れとなっていく。
 ジョージ・スティーヴンソン(1781~1848)は1830年に蒸気機関車「ロケット号」を使用した世界初の公共交通「リヴァプール・マンチェスター鉄道」を開通させたことで有名であるが、技術者としては先行技術を集大成しただけで独創性はあまりなかったと言われる。しかし、彼の息子ロバートをはじめとした優れた技術者仲間の協力、地元の賛同、幅広い資金調達によって鉄道を作り上げた。スティーヴンソンはマネージメント能力に秀でていたのだろう。発想力豊かな技術者であったがマネージメント能力が足りなかったトレヴィシックとは対照的だ。
 次回はそのスティーヴンソンの生い立ちや鉄道会社設立までの苦闘を辿る。

 

AI時代からの考察:「18世紀の英国で産業革命が起きた訳とは」[第5回]~2020年6月号

 電気料金は消費した電力ワットによって計算されるが、このワットという単位は「蒸気機関の父」ジェームズ・ワットにちなんで1889年の英国学術協会第二回総会で名付けられたそうだ。1ワットとは毎秒1ジュールに等しいエネルギーを生じさせる仕事率であり、1ジュールとは100gのモノを1m持ち上げる位置エネルギーに相当する。100gはちょうどMサイズのミカン1個だと考えるとよい。ワットは元々電力だけでなくエネルギー全般に使用できる単位なのである。
 自動車のパワーを表す「馬力」も仕事率の単位であり、英国では1馬力=745.7ワットと定義される。1馬力は馬1頭が継続的に発揮できる力を示したものだが、この馬力を実測し制定したのもジェームズ・ワットである。ワットは蒸気機関の性能を同等の仕事量をこなす馬の数に換算して表示することを思いつくと動力測定装置を作り、馬に1分間作業をさせて仕事率を計測した。重さ175ポンド(約79㎏)の荷物を馬に引かせたところ1分間で188フィート(約57m)移動したので、ワットはその仕事量を1馬力と定義した。
 ワットにはさまざまな発明があるが、最大の功労は、従来の蒸気機関を改良し効率を大幅に向上させたことだ。その蒸気機関が工場の機械や鉄道・船などの輸送手段に利用され、近代産業都市形成の原動力となった。
 今回は、そこに至るまでの蒸気機関の発展の歴史を辿る。

1.炭鉱の強敵、水没対策
 1700年の英国では石炭業を主とした鉱業が中心産業であり、石炭の生産量ではヨーロッパの80%を産出し、生産額では59%を占めていた。英国には多数の炭鉱があり、炭鉱では坑内での出水が頭の痛い問題であった。鉱山の坑道や採掘箇所が湧出する地下水で水没し、閉山に至ったケースが多くあった。表層の石炭が掘り尽され更に深く掘り進むと、坑道が帯水層に達するため、四六時中湧出してくる地下水などの坑内水を坑道から汲みだすことが必要となる。投資している炭鉱主にとっては、坑内水の排水をいかに上手に処理するかが最大の関心事であり、褒賞金を出してまで必死に排水の新技術を求めていた。
 当時の対応策として利用できる動力は風車、水車、馬があったが、英国の天候条件では風車の利用は無理であった。水車も炭鉱の近くに恰好な川が必要であり、また季節によって変動する水量のため安定稼働が難しいという欠点があった。馬を動力とした巻上げ機の利用はとにかく費用が嵩み、ある鉱山では揚水のために50頭の馬が使われたという記録もある。しかも馬の巻上げ機は作業スペースが狭いと設置できず、深く掘り下げた鉱山には巻上げ機が十分機能しなかった。こうした状況の中で英国の石炭業における鉱山の排水のために、豊富な石炭を利用した蒸気機関が研究開発されることになる。

2.大気圧の利用 トマス・セイヴァリ
大気圧の利用  蒸気機関とは蒸気の圧力を利用して動力を得る機関であり、一般的にはボイラーからシリンダー内に高圧蒸気を導いて、その膨張によってピストンを動かすのだが、当初の発明では若干異なる。
 1698年に蒸気の技術を初めて実用化し、特許をとったのが、イングランド南西部生まれの海軍軍人トマス・セイヴァリ(1650~1715)である。炭鉱から排水するための最初の蒸気機関として有効期限1733年までの特許を得た。
 セイヴァリの機関では蒸気の強い圧力を直接利用するのではなく、あくまで真空状態を作り出すために蒸気を使った。真空状態とは通常の大気圧より低い気圧で満たされた空間であるが、真空状態と大気圧との圧力差をこの機関の動力源としている。この圧力差の力を示す身近な例としては「容器の中に熱湯を注いで蓋で密閉すると、冷却後容器の中は真空となり、蓋が吸い付いて取れなくなる」現象がある。大気圧は地球を取り巻く空気の層の重さであり、海面上での標準大気圧である1013hPaでは1㎡あたり約10tの空気の重さがある。大気圧の存在とその大きさを示すものとして、1655年にドイツのマクデブルグで実施された半球の実験が有名だ。その実験は、ぴったりと合わせた2つの直径約60㎝半球の銅製容器を真空ポンプで球の中を真空状態にしたうえで、この2つの容器を引き離すものだ。左右各8頭の馬で引っ張って、ようやく容器を引き離せたらしい。
 セイヴァリの機関はボイラー付きサイホンのようなものであったが、炭鉱での揚水用の蒸気機関を試作して一応作動させた。しかし熱効率が悪いうえに取り扱いが複雑で故障が続出したため炭鉱ではほとんど利用されなかった。そのうえ、この機関には安全弁もなかったので金属同士の継ぎ目が蒸気圧に耐え切れずしばしば破裂して、ボイラーが爆発するような危険な代物だった。結局、セイヴァリの機関は鉱山には普及せず、ケンジントン宮やテムズ川近くの給水塔の揚水ポンプに使われただけで1705年に工房を閉じた。

3.圧力釜の活用 ドニ・パパン
圧力釜の利用  同時期にフランス出身のドニ・パパン(1647~1712)も同様な実験や試作をおこなっていた。
 パパンは医者だったが、力学への興味が断ち切れず、ベルサイユ宮殿で技師として風車を管理していた。1671年にその宮殿でパパンはオランダ人で数学と天文学で有名だったクリスティアーン・ホイヘンスと出会い、仕事振りを評価されて助手に採用される。そして、ホイヘンスから火薬を動力とした機関の開発を命じられるのであった。
 しかし、新教徒のパパンにとっては、カトリック教のフランスに住むことが不安だったので、1675年にホイヘンスの推薦状をもってロンドンに渡った。ロンドンで研究を続ける中でパパンは1679年に固い骨も柔らかくなる調理用の蒸気圧力釜を発明・実用化した。その際に、調理器の爆発を防ぐために発明した自動調節安全弁が蒸気圧の利用に繋がっていく。パパンは引き続きホイヘンスの命令にしたがって真空状態を作るために火薬の利用を研究していたが、実用化は困難であった。そこでパパンは「水が蒸気に変わる際、体積が千倍以上になる」現象に着目し、蒸気が凝結する際に発生する真空を動力機関に利用することを思いつく。しかし、蒸気の圧力を直接利用するというパパンの革新的な発想を支援してくれる資金提供者はなく、模型を作るお金にも事欠いた。また、当時は高温高圧の蒸気に耐えるような板金技術もないため、機関がバラバラに吹き飛ぶこともあり、実用化に手間取っていた。
 そこへパパンにとって衝撃的な出来事が起こる。パパンに先んじて1698年にセイヴァリが揚水する蒸気機関の特許を取得したのだ。しかし、1704年にパパンはセイヴァリの機関について「ピストンなしで蒸気を利用するので熱のロスが大きく、蒸気ボイラーを保護する安全弁もない」と指摘している。パパンはイングランドの王立協会から支援を得るためにセイヴァリの改良案を含めさまざまな発明の計画書を提出するが、ことごとく無視され1712年に失意のまま亡くなった。一方、セイヴァリは「パパンの機関はシリンダーとピストンの摩擦が過剰に高まるので作動しない」と容赦ない批判をした。そういうセイヴァリの機関も前述の通り、ほとんど使い物にならなかった。双方とも設計上の欠陥があったのである。

4.世界最初の実用熱機関 ニューコメン
世界最初の実用熱機関  前記の二人とほぼ同時期に蒸気機関に着目して、1700年頃から実験を開始したトマス・ニューコメン(1664~1729)が1712年に商業目的で本格的な機関をバーミンガム近郊の炭鉱で初めて建造した。そして、この機関によってイングランド中西部の炭鉱業が息を吹き返すことになる。ニューコメンはイングランド南西部の没落貴族の末裔で、金物商を営んでいたのだが、馬で水を汲み上げるのに大変な費用が掛かることを知り、蒸気機関の開発に着手した。ニューコメンはセイヴァリやパパンたち先人たちの技術の長所を機関に取り入れたうえで、巨大なボイラーとシリンダーを別個に設置した。
 当初の機関はシリンダーの外側から水を掛けて冷却する仕組みであったが、試作実験中の事故が怪我の功名となって直接冷水をシリンダー内に注入させる方法を発見する。この仕組みにより、費用は馬による水の汲み出しの1/6となり、効率性が格段に良くなった。しかも以前のものに比較して故障も少なく、安心して使えるようになる。ニューコメンの機関はたちまち評判となり、ヨーロッパ中の各地の鉱山で利用され、改良型は20世紀初めまで実際に使われたらしい。しかし、揚水用の用途以外には拡がらなかった。また、ニューコメンにとって不運だったのは、セイヴァリの特許の有効期限が1733年だったので、セイヴァリと提携するしかなかったことだ。

5.分離凝縮器と回転運動式蒸気機関 ワット
回転運動  汎用的な蒸気機関の登場は18世紀後半となる。
 ジェームズ・ワット(1736~1819)はスコットランドの船大工の家に生まれた。計測機器の製造技術をロンドンで学んだあと、グラスゴー大学で科学機器製造業者として工房を開設し、1763年に大学にあったニューコメンの蒸気機関の修理を担当する。修理の過程でこの機関のさまざまな欠陥に気付き、特に効率の悪さに驚く。ワットはブラック教授のアドバイスから燃料のロスの原因は「一つのシリンダーの中で熱い蒸気と冷たい水の双方を扱う」ことだと突き止めて、解決策として冷却器を別に設置することを考案した。排気された蒸気の冷却を専門とする冷却器を置くことで、シリンダーは高温蒸気扱い専用となり、機関の効率性が格段に向上した。この冷却器がワットの名前を不朽のものにした分離凝縮器である。1769年に特許を取得して蒸気機関の実地製作に取り掛かるが、技術水準が低く、なかなか実効が上がらなかった。そのうえ資金援助者である英国の工業家ローバックが1770年に破産して開発の一時中断を余儀なくされたが、バーミンガムの企業家ボールトンの積極的な援助を新たに得たことで開発に専念して技術的問題を解消する。
 また、有効期限の迫っていたワットの特許が議会の承認を得て1800年までの25年間延長されたことを機に、ワットとボールトンは1775年に蒸気機関の共同事業を始める。効率性が高くても高価で維持管理が面倒なワットの機関は当初売れなかった。それに対してニューコメンの揚水用の蒸気機関は安価で取扱いが簡単なので人気があり、また炭鉱の利用では価値のない炭屑を燃料に使えるので燃料の効率を気に掛ける必要がなかった。
 そこでワットはコーンウォール地方の鉱山に狙いをつけて売り込みを掛けたところ、1776年に自身が設計した揚水用の蒸気機関で高評価を得る。この地方の鉱山で採用された理由は、銅や錫の鉱山なので炭屑がなく、燃料の石炭消費量を節減するニーズが高かったことと、深く掘られた鉱山なのでニューコメンの機関では揚水する能力が不足していたからだ。ワットの機関の石炭消費はニューコメンのほぼ1/4だったので、コーンウォール地方では順次ワットの揚水機に切り替えられて、1777~1801年のあいだに49台が設置された。
 その頃、ワットはボールトンから回転運動の蒸気機関の開発を要請されて、1781年に上下運動を回転運動に転換する仕組みの特許を取得した。回転運動式蒸気機関は強い糸を紡ぐ必要のある綿工業で需要が大きく、1785年に初めて綿工場に機械の動力用として設置された。その後、大量生産を可能にしたミュール紡績機への導入でワットの機関は一気に揚水以外に販路を拡大していく。1800年の特許期限までにワットの蒸気機関は国内のさまざまな業界向けに約450台製造されたらしい。
 こうして、回転運動式蒸気機関に至るまでの経緯を見ると、偉人が画期的な発明をする伝記のような話は実際には存在せず、さまざまな人々の努力が繋がって実用化されていくことが分かる。また蒸気機関が英国で発明されたのは、豊富な石炭と主要産業である鉱山業の存在が大きく関係している。
 次回は英国鉄道の父スティーヴンソンを中心に蒸気機関が輸送分野に広まっていく過程を辿る。
 

 

AI時代からの考察:「18世紀の英国で産業革命が起きた訳とは」[第4回]~2020年5月号

 英国産業革命の全盛期であるビクトリア朝(1837~1901年)時代にロンドンは冬に濃い霧が発生することから「霧の都」と呼ばれた。
 当時、文部省から国費留学生として英国に派遣されていた明治の文豪、夏目漱石はロンドンでの出来事を次のように日記に記している。
 「倫敦の街を散歩して試みに痰を吐きて見よ。真っ黒なる塊の出るに驚くべし。何百万の市民はこの煤煙とこの塵埃を吸収して毎日彼らの肺臓を染めつつあるなり。我ながら鼻をかみ、痰をするときは気のひけるほど気味悪きなり」(1901.1.4)
 ロンドンの霧の正体は暖炉や蒸気機関車などの石炭の煙が濃霧と混じりあったものであった。痰が真っ黒な塊になるほど当時の大気汚染は酷かったのだ。1905年にはこの黒い霧を通常の白い霧と区別するために、smokeとfogを合成してsmog(スモッグ)と呼ぶ申し合わせをしている。
 この英国の大気汚染は、産業革命の工業化によって初めて発生したのではなく、実はそれ以前からすでに英国に発生していた。薪や木炭のもとになる森林が早くに枯渇した英国は、安価な石炭を燃料として利用していたのである(木炭とは薪から水分と不純物を取り除いて炭素含有量を高くしたもの)。
 石炭を原料とする蒸気機関の歴史を辿る前に、今回は英国で大量の石炭を利用するに至った歴史を探る。

1.ローマ時代における豊かな森林の消失
 英国は、紀元前1世紀半ばから紀元4世紀にわたってローマ帝国の植民地であった。当時は国土の大半が森林に覆われていたので、ローマ人が森を切り開いて農地にするとともに豊富な鉄鉱石と樹木を利用して鉄の生産拠点にもなっていた。樹木が伐採されて、英国南部の森林はかなり減少したのだが、ローマ帝国の滅亡後には森林はある程度蘇生する。しかし、後進国であった英国の主要産物は木材であり、14世紀には木材の輸出が隆盛となって樹木の減少はとまらなかった。

2.国内産業の発達で森林枯渇
 16世紀に入ると、英国では国内産業の発達や木造船の建造などで木材をさらに大量に消費し、森林枯渇を加速させた。
(1)製鉄をはじめとした国内産業の発達
 鉄鉱石が国内に豊富にありながら、16世紀初めの英国の簡単な炉では大砲などの兵器製造は技術的に困難だった。他のヨーロッパ諸国よりも英国は産業面で立ち遅れていたのだ。
 その後、ヘンリー8世(在位1509〜47)は自身の離婚問題から英国にイングランド国教会を独自に成立させたために、ローマ・カトリック教会との関係が悪くなった。そのことで外国からの侵略を警戒して早急に大砲や鉄砲などの鉄の兵器を国内生産する必要が生じた。1543年には欧州大陸から強力な燃焼力をもつ高炉を導入して、英国は鉄の鋳造大砲の製作に成功した。生産拠点はイングランド南部のサセックスにあるウィールド地方の森の中であり、鉄鉱石の鉱脈と燃料に最適なナラの木がふんだんにあった。新たに導入した高炉法のおかげで鉄の大量生産が可能となったのだが、同時に大量に木材燃料を消費するようになった。
 また、エリザベス1世(在位1558〜1603)時代には財政赤字対策として、国内産業育成に力を入れたので、銅の精錬、塩、ガラス、鉛といった産業が発達するのだが、これらはどれも木材燃料を大量に必要とした。
(2)木造船の建造ラッシュ
 海洋大国スペインとの対立で多くの木造艦船が建造された。ちなみに全幅17m、全長61mの平均的な大きさの戦列艦1隻の建造には約2500本もの巨大ナラを伐採したらしい。また、100t以上の大型の商船でも1577年の135隻から1592年の177隻に増えたという。これだけ建造されて、木材が伐採されれば森林が枯渇していくのも頷ける。しかも、樹木が切られた後の土地はそのまま牧草地や耕地にされて、あまり植樹されなかったようだ。
 16世紀頃には、英国では森林枯渇が深刻化して、もはや熱源を樹木に依存できる状態ではなくなった。基幹産業となった鉄の製造においても、17世紀後半から18世紀にかけて深刻な木炭不足の影響で、鉄の製造が停滞した。

3.一般家庭も石炭の利用へ
 英国では、昔から鍛冶屋、石鹸職人、石灰職人、製塩業者などが、薪の代わりに豊富で安価な石炭を利用していた。しかし、国内で入手可能なミッドランド産の石炭は鼻を突く煙と硫黄のような悪臭で忌み嫌われていた。そのため、1306年に王室布告で職人が炉で石炭を焚くことを禁止したりもするのだが、森林枯渇で状況は変化する。
 一方、一般家庭では暖炉に薪を使用していたのだが、薪の値段が上がって石炭の利用を強いられることになる。薪の価格上昇には前述の森林枯渇の要因だけでなく、人口が急増したことも影響している。イングランド全体では人口が1500年〜1600年で325万人から407万人に急増しており、人口増加の分だけ木材燃料の需要が増加したのだ。
 その結果、15世紀には石炭と薪は熱量エネルギーで見ると、ほぼ同じ価格であったものが、16世紀終わりには薪の価格が石炭価格の2倍に上昇して、一般家庭には高嶺の花となった。やむなく、一般家庭でも値段の高い薪を諦めて、石炭用の暖炉と煙突を設置して安価な石炭を燃やし始めるようになったのである。
 英国の石炭の年間生産量を見てみると、1540年は約20万tであったものが、1650年には約150万t、1700年には約300万tと増加した。
 17世紀後半における英国の石炭生産量は全世界の約85%を占めたらしい。産業革命への本格突入前にすでに石炭の生産・消費が高水準にあり、その頃には石炭の煤煙で大気汚染はかなり進んでいたはずである。
  
4.コークスの発明で大気汚染はさらに悪化へ
 製鉄を除く諸工業では安価な石炭の利用が増加するのだが、製鉄では依然として高価な木炭を利用していた。それは、石炭に含まれる硫黄などの不純物が鉄を変質させるという問題があったからだ。その問題を解決したのが1709年にエイブラハム・ダービーが考案したコークス高炉法である。
 石炭を高温乾留(蒸し焼き)して生成したコークスを高炉の燃料とすることで、硫黄などの不純物を取り除くことに成功した。これで製鉄の最終工程の一部を除き石炭だけで対応可能となった。さらには1783年にヘンリー・コートのパドル法により、製鉄の全工程が石炭で対応できるようになり、同時に鉄の大量生産も可能になる。
 英国における鉄の生産高は1720年〜1788年の間で1万7350tから6万8300tに急増した。熱源ベースでは1720年の時点では100%木炭であったものが、1788年には約8割が石炭由来のコークスで生産されるようになった。
 こうした石炭需要の増加によって、1700年頃には一人当たりの石炭使用量が年0.5t程度だったものが、産業革命が始まった1800年には一人当たりの石炭使用量は1tに達し、夏目漱石が留学した1900年には年6tにも達したらしい。 石炭のおかげで英国の森林枯渇は免れたのだが、夏目漱石が嘆くような悲惨な大気汚染はさらに悪化の一途を辿るのであった。

5.蒸気機関による石炭利用
 さらに石炭需要増加に拍車をかけたのが蒸気機関である。18世紀後半に、ジェームズ・ワットの回転式蒸気機関が発明されたことで、英国は石炭を燃料とする蒸気機関と製鉄を原動力に19世紀にかけて本格的に産業革命に突入するのである。
 次回はその蒸気機関の歴史について触れたい。

 

AI時代からの考察:「18世紀の英国で産業革命が起きた訳とは」[第3回]~2020年3・4合併号

 第4次産業革命の最中にある現在、AI(人工知能)脅威論がニュースの話題でよく取り上げられる。このまま技術革新が進むと日本でも労働人口の49%がAIとロボットに仕事を奪われてしまうとの予測もある。今後どのようにAIとの共生を図っていくかが私たちの課題だが、英国の第一次産業革命においても同様な問題が発生していた。繊維工業、特に綿工業における技術革新によって飛躍的に機械の生産能力が高まった結果、深刻な失業問題が発生したのだ。非熟練工による大量生産が可能となったことで、零細な家内制工業は廃れて機械制工業が主流となると同時に、当時の熟練工や職工の置かれた状況も激変した。今回は産業革命期の繊維機械の変遷を辿る。

1.毛織物から綿織物へ−キャラコの大流行−
 15〜16世紀は国内の良質な羊毛により、毛織物工業は英国の国民的産業であった。当時は、家族労働による家内制工業が殆どであり、妻や子供が小さな糸車を使って糸を紡いで、夫が布を織っていた。
 17世紀に入るとインドの良質な綿花や綿布がイギリス東インド会社を通じて英国へ輸入された。輸入された綿布のうち、インド産の平織り綿布は輸出港の名前カリカットが訛ってキャラコと呼ばれた。キャラコは値段が安く、肌触り、吸湿性に優れ、洗濯も簡単であったため爆発的に流行した。それが面白くない毛織物業界は議会に働きかけて、1700年にはキャラコ輸入禁止法、1720年にはキャラコ使用禁止法を制定させた。入手困難となった綿織物だが、その人気はさらに過熱化して需要に供給が追い付かない状況であった。その需要に応えるためには、国内で綿織物を増産する新たな技術革新が必要となった。

2.飛び杼ひ−手織りの織布過程の高速化−
 1733年にまず発明されたのが英国人ジョン・ケイの「飛び杼」である。杼とは緯糸を巻いて収めるための容器のことだが、その杼を改良したものが飛び杼だ。この飛び杼は当初毛織物の生産に利用されたが、のちに綿織物の生産にも使われた。
 手織り機では経糸の間に杼(シャトル)を通して緯糸を入れる操作をするが、広幅の布の場合には二人の職工が左右で杼を受け渡すなど手間がかかった。この飛び杼を使うと、職工が織機の上部の紐を引くことで左右の送出器によって打ち出された杼が杼道上を往復する仕組みになっており、一人で広幅の布を短時間で織り上げることが可能となった。手動式の極めて単純な仕組みだが、この発明によって生産性は従来の2〜4倍になった。綿布の生産能力が上がったことで、原料となる綿糸が不足となり、今度は紡績の生産性向上が必要となった。

3.紡績機における技術革新
 紡績の技術革新として、まず登場したのが手織り工出身の英国人ハーグリーヴスによって1764年頃に発明された「ジェニー紡績機」であった。これまで糸を紡ぐには綿花から繊維を引っ張り出して、綿棒に巻き付かせる手作業を1本ずつおこなっており、手間がかかっていたが、この手動式機械の登場によって6本以上を同時に紡ぐことができるようになった。しかし、手動で紡ぐ糸は細くて切れやすかったので、緯糸に利用するしかなく、強度が必要な経糸には引き続き手紡車が使用された。このジェニー紡績機は小型だったので既存の家内制工業にも向いており、急速に普及した。
 次に経糸の問題を解決したのが「水力紡績機」だ。1771年に英国人床屋でかつら製造業者のアークライトによって発明され、ジェニー紡績機に比較すると技術的にかなりの進化が見られた。
 まずは経糸用の丈夫な糸が製造できるようになった。加えて、これまで馬であった動力源を水車による水力に替えたことや、糸の撚りと巻き取りを同時におこない連続作業を可能としたことによって、工場での大量生産が可能となった。しかも、職工の訓練もあまり必要でなくなった。一方で難点は、太い糸しか製造できないことであった。また、水力紡績には大掛かりな設備を要するので、それらを設置する工場が必要であり、しかも水力を利用するには、工場を町から離れた急勾配の渓谷などに設置する必要があった。アークライトはダーウェント川沿いのクロムフォード工場(イングランド中部ダービシャ州)に水力紡績機を設置したのだが、実際には季節による水量の変化に苦労したようだ このダーウェント川の工場群は産業革命初期のものとして2001年に世界遺産に指定された。

4.ミュール紡績機と力織機−大量生産へ−
 1779年にはジェニー紡績機と水力紡績機の長所を掛け合わせた「ミュール紡績機」が7年間におよぶ試作を経て英国人技術者クロンプトンによって発明された。このミュールの名称は英語のmuleすなわち雄ロバと雌馬との雑種であるラバに由来している。丈夫で細く、しかも安定した太さの糸が製造可能となったので、高級で人気の高い薄地の綿織物モスリン用の糸として使用されるようになる。 さらに1789年には蒸気機関を利用した改良型が完成した。これらの発明によって綿糸の生産が急激に増加して綿糸の供給が過剰となり、今度は逆に、綿織物の織るスピードが間に合わなくなった。
 そこで新たな織機として登場したのが、英国人牧師カートライトによって発明された「力織機」だ。1785年に馬を動力源として発明した力織機を1787年に蒸気機関利用に改良したことで生産能力が3.5倍になったと言われる。
 このように一つの技術革新による需給関係の変化が、新たなる技術革新を次々に引き起こした。そして1802年から1803年にかけて、綿織物は毛織物から英国輸出品ナンバーワンの地位を奪った。

5.ミュール革命の意義
 これまで述べた機械のうち、特にミュール紡績機の登場は、強くて細い良質な糸の生産を飛躍的に増大させて、インド製品の独占状態を打破したという意味で歴史的なインパクトが大きい。また、動力源が水力のものは渓谷など水を利用できる場所に工場を設置する必要があったが、蒸気機関を利用することで平地上の大都市に大工場を設置できるようになった。都市では、原料、石炭燃料、労働力などの調達が容易であったので、次々と工場が増えて綿織物の生産量が急増した。このことは1750年から1790年の間に綿花の輸入量が276万トンから3074万トンと11倍にも増加したことからも明らかである。
 そして、1820年代にはリチャード・ロバーツによる「自動ミュール紡績機」が発明される。これまでは、運転調整に熟練した成人男子一人が付きっ切りで作業するため同時に運転できるのは300錘足らずであったが、この自動化によって成人一人と子ども2〜3人で1600錘もの運転が可能となった。しかも、人間の作業は糸継ぎと機械トラブルの監視のみとなったので、紡績工場のさらなる大規模化が可能となった。

6.職工の反発
 一方で、技術革新を生んだ発明家たちの余生は決して人が羨むようなものとはならなかった。
 飛び杼を発明したジョン・ケイは1733年に特許を取得したが、この発明によって不要となった熟練工に恨みを買い、暴漢に襲われ、仕事場も壊された。その後、ケイはフランスに逃亡するが、織元が特許料を払わず生活的に困窮するなど、不遇な人生を送ったらしい。ジェニー紡績機を発明したハーグリーヴスも同じく職工に自宅を襲撃され、機械を壊されたのでノティンガムに引っ越した。1770年にハーグリーヴスはジェニー紡績機の特許を取得するのだが、結果的に特許料を得ることはできなかった。水力紡績機を発明したアークライトは、工場経営者、資本家として大成功を収めたが、1779年に機械化に反対する暴動でバークエーカーの新工場が破壊された。1810〜1817年頃にイングランド中部北部の紡績、織布業で起きた機械打ち壊し事件はラッダイト運動として歴史的に有名であるが、その運動の主体となったのは機械導入による失業や共同体の解体の脅威に晒された手工業者や労働者であった。
 エンゲルスの「イギリスにおける労働者階級の状態」(1845年刊)は産業革命期のルポルタージュの傑作であるが、そこには新しい機械が導入されるたびに労働者が多数失業していく状況が克明に描かれている。この本の中に「妻が紡績工場で働き、家で夫が家事をする主夫となっている」事例が挙げられていた。働く男性たちを取り巻く環境が大きく変わったのである。繊維機械の自動化によって熟練工は不要となり、力仕事もなくなった。残ったのは切れた糸を紡ぐ仕事だけである。そうなると指先の柔軟性があり、骨格の小さい女性や子どもの方が工場の労働者に向いている。しかも女性や子どものほうが低賃金なので、男性を雇う必要がなくなったのだ。機械の導入により何年もの修業期間で培った技術が台無しとなった男性たちの失望や落胆ぶりは凄まじいものだったであろう。彼らは技能への誇りや社会的地位を一瞬にして喪失した。その怒りによる機械の取壊運動は苛烈を極めたが、結果的に機械化の流れは止まらなかった。



繊維機械の発明による技術革新は、仕事だけでなく職人の誇りを奪い、彼らの生活様式、家族関係や価値観を劇的に変えた。そして私たちの現代においても、まさにAIによる技術革命が起きている。AIが雇用におよぼす影響については悲観的な論調が多いが、大事なことはAIに翻弄されず、AIをあくまで自分をサポートする手段と捉えたうえで、その活用をしっかりと考えていくことであろう。次回は蒸気機関について触れたい。

 

AI時代からの考察:「18世紀の英国で産業革命が起きた訳とは」[第2回]~2020年2月号

 気候変動対策の必要性が叫ばれる中で、2015年に合意されたパリ協定の実施を目指す国際会議COP25が昨年12月にスペインで開催された。この「パリ協定」の中に「産業革命」の4文字が次のように含まれている。「産業革命前からの世界の平均気温上昇を2度未満に抑えるために2020年以降、具体的に温室効果ガスの排出を削減することを義務付けされる」

 「産業革命前」に具体的な年代特定はないが、温室効果ガスの排出という意味では英国で石炭利用の蒸気機関が始まった1800年ごろが想定されるだろう。産業革命の時代は気候変動問題においても重要な起点となるのだ。
 その産業革命を推進した原動力の一つが当時の英国での急激な人口増加であり、そこには農業の革命的な変化が大きく関係している。

1.英国での急激な人口増加
 産業革命時の1800年ごろ、英国では人口が急増していた。どのくらい増加したかは、英国全体の統していた。どのくらい増加したかは、英国全体の統計がないので、英国の約半分の面積を占めるイングランドのケースで説明する。1981年にケンブリッジ学派リグリーとスコフィールドによって、全部で404の教会の教区から抽出した洗礼数と埋葬数をベースに近代以前のイングランド人口動態の復元が試みられた。そこから人口の推移は1701年500万人⇒1800年860万人⇒1851年1681万人と、急激な増加であったことがわかる。1800年から約半世紀でほぼ倍増したのである。17世紀までは飢饉、内戦などの要因に加え生活環境が極めて不衛生で、ペストなど伝染病がたびたび流行し、死亡率が高く人口増加も緩やかだった。ところが、19世紀に入ると労働者階級の生活水準の向上や、衛生改革により徐々に住環境が改善、平均寿命が劇的に伸びた。さらに医療技術の発達により死亡率が低下したことや、女性が早く結婚し生まれる子の数が増えたことも人口増加の要因と言われる。そうした急激な人口増加に対して、英国の経済学者マルサスが警鐘を鳴らした。
 1798年に刊行されたマルサスの「人口論」に「人口は制限されなければ幾何級数的に増加するが、生活資源は算術級数的にしか増加しないので、生活資源は必ず不足する」という有名な命題がある。人口増加はそれを養う土地の能力をいつか必ず追い越し、そうなれば悲惨な状況と大量死が待っていると予想したのである。この命題のメカニズムを一般にマルサスの罠と呼ぶ。

2.ノーフォーク農法
 人口が急激に増加する以前は三圃制輪作農法が主流であった。これは、連作障害を避けるために秋播きの小麦、春播きの大麦および休閑を組み合わせたものであり、12世紀ごろから始まった。この農法の下では、村落全体で共同して耕作が行われており、この形態を開放耕地制度と呼ぶ。この、三圃制では生産できる穀物の量に限界があり、農民は冬期間の家畜用飼料も確保できなかった。やむなく秋には貴重な羊や牛を食肉用に殺していた。
 ところが、1800年代の急激な人口増加に加え、フランスや米国との戦争で政府買付分として食料を確保する必要が生じたので、早急に農業の生産力を大幅に向上させ、食料の増産を図らねばならなかった。そこで生産性の高い農法としてノーフォーク農法が英国の各地で導入された。ノーフォーク農法とは17世紀後半からイングランド東部ノーフォーク州で始まった大規模農法である。同一耕地でカブ⇒大麦⇒クローバー⇒小麦を4年周期で輪作する農法であり、休墾地を置かない分だけ生産性が高い。クローバーやカブはあまり土地の養分を吸わずに成長するのに加えて、それらを家畜の越冬飼料に利用できるので冬期の飼育も可能となった。家畜の生育期間が延びたことで体が大きく成長し、家畜の平均重量は18世紀の間に倍以上になったという。さらに家畜の糞尿が肥料となり穀物の生産量も増大した。またカブは深く根を張ることで土を耕す効果があり、マメ科のクローバーは根にバクテリアの一種である根粒菌がつき、空気中の窒素を地中に窒素化合物として固定するので、土地が衰えるのを防いでくれるのだ。生産者としては良いこと尽くめなのである。17世紀の初めと比較すると、こうした農業の発達によって収穫量は約1.7倍に向上したといわれる。農機具も木製から鉄製へ、またさまざまな改良も加えられ生産性が向上し、結果として鉄の生産にも結び付いた。

3.農業革命と農村での経営形態の変化
 ノーフォーク農法の拡大と共に農業革命のもう一つの柱は第二次エンクロジャー(囲い込み)である。第二次エンクロジャーは1760年から1830年にかけて進んだ。ノーフォーク農法は、高度集約農業なので大規模農場が有利であった。そこで、貴族などの大地主が、議会を主導し立法化することで、これまで共有地として用いられてきた土地を次々に囲い込んで私有化した。その結果、英国の耕作地の約20%が囲い込まれ、1830年代には共同利用していた開放耕地制度はほぼ消滅したようだ。農業の生産力が大幅に増大した一方で農場の経営形態は変容したのである。
 農場の規模を大きくするほど有利なので、貴族階級の地主は大土地所有権を強化した。それらの地主は、今までのような自営農業者ではなく、高い地代が得られる農業資本家(借地農)に農地を貸した。囲い込みで土地や職を失った農民は、そのまま農場の賃労働者となるか、都市部で勃興した工場労働者となった。農村は大地主・農業資本家・農業労働者の三分割制の経営形態となり、農業の資本主義化が進んだのである。

4.都市への人口流入と社会構造
 このように自営農民が都市へ流入したことによって、1700年頃は農村部に住む人々が全体の75%であったが、1800年には36%、1850年には22%にまで急激に低下したという。そのうえ人口の増加状況には偏りがあった。マンチェスター、リヴァプール、バーミンガムのような中部や北部における新興の都市で急激に増加した。このように急激で歪な都市化は、都市のスラム化など英国社会にさまざまな弊害をもたらすことになった。
 しかし没落した自営農民が産業革命における労働者の重要な供給源となったことで、都市においては、工場を経営する資本家(ブルジョアジー)とともに、その工場で働く大量の労働者という新しい社会階層を出現させた。そして、地代で蓄財した地主や産業資本家は、本来なら政府が行うべきインフラ投資を積極的に行った。彼らの資金が運河建設、有料道路、港湾などの輸送事業に投資されて輸送インフラが改善した。そのおかげで、輸送の利便性が増して、商取引が一層活発化されるという好循環が生まれたのである。



 英国は、半世紀で全人口が倍増する中で、同時に農業人口比率を低下させつつ、増大する非農業人口に安定的に食料を供給できた。このような離れ業が可能となったのは、産業革命と人口増加と農業革命が絶妙なタイミングで同時に起きたことにより、食物生産の状況と商取引が大きく変化したからである。産業革命によって、工業化が進み、製品を海外に販売することで、世界中から食物の輸入が可能となり、1850年頃は穀物必要量の6分の1を輸入することができた。「マルサスの罠」を超越する食料確保が可能となったのである。
 英国の産業革命時で没落した自営農民が工場労働者となったように、AI技術の進展によって職を失うと予想される非熟練労働者に雇用機会を創出することが、今後日本が直面する課題となろう。それらの解決にはAI、IoTや5Gなどの技術革命分野だけではなく、さまざまな革新的な要素が多分野にわたって進展し、同時かつ複合的に絡まることが必要だと思われる。産業革命時の資本家たちのように将来を見据えて積極的なインフラ投資をするだけでなく、時代に即して私たちの社会構造全体が大きく変容することが要求されるのだ。

 次回は、織機や蒸気機関などの技術革新やその前提となる資本蓄積について取り上げたい。

追記:
 先般2018年製作の映画「ピータールー マンチェスターの悲劇」(マイク・リー監督)を観た。1819年8月16日の英国マンチェスターでの惨劇を映像化したものである。選挙権を求めて、セントピーターズ広場に集まった多数の民衆が虐殺されるにいたった悲劇を忠実に再現した。映画では産業革命当時の社会状況や労働者の生活ぶりが窺い知ることができて興味深い。

 

AI時代からの考察:「18世紀の英国で産業革命が起きた訳とは」[第1回]~2019年12月号

 私たちは現在、第四次産業革命の最中にいると言われる。これから、私たちの暮らしはどのような変貌をとげるのだろう?
 18世紀、英国発の第一次産業革命は水力や蒸気機関による工場の機械化とされ、第四次産業革命はIoT、ビッグデータとAIに代表される自律化と定義されるようだ。ちなみに、第二次産業革命は電気エネルギーに代表される大量生産であり、第三次産業革命はコンピューターに代表される自動化である。
 これらの定義は、発明・発見といった技術的な側面に重きを置いたものだ。しかし、産業革命の成立要件は技術革命にのみ依存するものではない。
 労働、金融資本、消費、流通、居住、農業、そして政治などの変化が複合的に絡み合うことで変革が達成されたのである。
 では、その変革の成立要因とは具体的に何であろう?
 具体的に要因を探るには、英国の産業革命時の社会情勢などを丹念に辿ることが必要だ。
 世界に先駆けて、英国で産業革命が発生した理由も併せて紐解きたい。
 歴史は未来を予言することはできないが、将来の行動のために有効な一般的な指針を提供してくれると言われる。
 現在と18世紀では時代が随分と異なるので、参考になるのかとの意見もあろうが、人間の行動・心理面を含めて多面的に産業革命を探究すれば、現代への指針を導き出せるのではないかと考えた。
 そのことが本稿を始める動機だ。
 今回をスタートとして、英国の産業革命に関するテーマを複数回にわたり考察したい。

 今回のテーマは「歴史と産業革命に対する捉え方」である。少し堅いテーマだが、今後進めるにあたっての私の基本的な考えを若干述べたい。
 まず、一つ目のテーマの「歴史の捉え方」。
 勿論、人により歴史認識はさまざまである。
 私は、理事長就任の挨拶文の中で引用したE.H.カーの言葉を大事にしている。
 英国の歴史家E.H.カーは『歴史とは何か』(岩波新書)の中で「歴史とは現在と過去との対話である。現在に生きる私たちは、過去を主体的に捉えることなしに未来への展望をたてることはできない」と論じている。
 歴史は単なる過去にあった事実ではなく、自己の立場を正当化する手段として歪められる場合が多い。なぜなら、歴史は勝者によって描かれたり、その時々の政治の事情や都合によって書き換えられたりする。
 そして、新たな史実の発見や技術的な進歩による科学的知見の積み重ねがあると漸く歴史的な評価が変化する。

 イタリアの哲学者クローチェは「もともと歴史とは現在の眼を通して、現在の問題に照らして過去を見ることで成立する。歴史家の主たる仕事は記録することでなく、評価することである」と述べている。故に「評価した歴史家を先ず研究せよ」と言われる。足利尊氏の毀誉褒貶は時代によって変わった。
 私たちが過去に学校の授業で習って、絶対的だと信じていた歴史の事象がいつの間にか変わってきている。鎌倉幕府の成立年号は今や1192年ではなく1185年らしい。
 NHKの「英雄たちの選択」や「歴史秘話ヒストリア」などの歴史番組を視聴すると、敗者が後に極悪人と記述される事例や新しい科学的発見などにより新事実が判明する事例がしばしば取り上げられている。科学は普遍的であるが、歴史は個別的なのであろう。
 そして、人間は今の世の中が暗いと思うと将来を悲観的に捉える傾向がある。昭和の高度成長期には輝かしい未来を夢見ていたが、少子高齢化の現在は「日本の未来は厳しい」と嘆く人が多い。
 詩人ゲーテの言葉に「時代が下り坂だと全ての傾向が主観的になるが、現実が新しい時代に向かって成長している時は、すべての傾向が客観的になるものだ」とある。
 昔から、先行き不透明な時代においては、過去を主観的に捉えがちである。
 E.H.カーは「過去の諸事件と未来の諸目的との対話においては、過去に対する建設的な見方が必要」と論じている。第四次産業革命の到来による輝かしい未来を展望して、過去の事実を客観的かつ主体的に捉えることが求められる。

 今回のもう一つのテーマは、「産業革命の捉え方」である。
 さて、産業革命と名付けたのは誰なのか?名付け親の一人は、フランスの著述家アルジャンソン侯。T.S.アシュトンの著書「産業革命」の中で産業革命という言葉を作り出した人物とされている。
 他には、フランスの経済学者J.A.ブランキが1837年に使用し、その後1844年にF.エンゲルスが広めたとされる。学術用語としての産業革命は、経済史家アーノルド・トインビーが自身の著作の中で使用したことで定着した。(このアーノルド・トインビーは 英国の20世紀最高の歴史家アーノルド・J.トインビーの叔父にあたる)

 経済学者達の産業革命に対する捉え方はさまざまである。
 まず、トインビーは理想主義的な社会改良主義の立場から「産業革命は、多くの貧困者が出現した原因である」と悲観的に捉えた。
 そうした捉え方に修正を加えた本が先述のアシュトンの著書「産業革命」である。彼は、「英国における産業革命の惨禍の原因は技術的変革や経済組織の変化だけではない」と論じた。彼はこの著書の中でジョージ三世の即位(1760年)からその子ウィリアム四世の即位(1830年)に至る間の英国社会の変貌を非常に詳しく記述している。
 その後、20世紀に入ると米国の経済学者W.W.ロストウが米国経済の繁栄を背景に「産業革命は豊かさの出発点である」と唱えた。彼の著書「経済成長の諸段階」(1960年)の5段階説では、産業革命時期を経済成長への離陸に向けたものとして前向きに捉えている。
 さらには、1985年に経済学者のN.クラフツが産業革命期の英国経済成長を研究して従来の高い成長率を下方修正した。その結果をもって、「産業革命は存在しなかった」との産業革命否定論が出現した。
 世界の工場としてパクス・ブリタニカを謳歌していた英国が「ヨーロッパの病人」あるいは「不満の冬」と呼ばれる深刻な経済停滞に陥っていたことが否定論出現の理由の一つであろう。のちに、その打開策として、鉄の女サッチャー首相の改革が登場するのだ。

 こうして、トインビー、アシュトン、ロストウ、クラフツなどの産業革命に対する捉え方を比較すると、その人によってだけでなく、各々の時代背景によっても変化することが分かる。
 歴史の面白さは歴史的事実を基に、どう自分の想像力を膨らますかだと思う。さまざまな歴史の出来事が世の中の触媒として、どう作用したのかを自分なりに仮説を立てることができれば本当に楽しい。
 私にとって、高校までの歴史科目は年号や出来事を必死になって暗記するイメージが強く、正直苦痛だった。今から省みると、本当に勿体ない話だ。

 昨年の暮れから「承久の乱」という同じタイトルで2冊の新書が相次いで発刊された。
 その新書は坂井孝一氏と本郷和人氏によるものであるが、双方を読み比べてみた
 歴史の捉え方という面で、後鳥羽上皇、北条義時、鎌倉幕府などに関する両者の視点や主張の違いを比較するのは大変面白かった。

 最後になるが、スペイン、オランダ、フランスなどの列強国ではなく、欧州の片田舎にすぎなかった英国において「何故、最初に産業革命が起きたのか」という歴史事実は非常に興味深い。
 次回は、英国第一次産業革命成立の前提条件として、まず人口面と農業面から、アプローチしたい。