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AI時代からの考察:「18世紀の英国で産業革命が起きた訳とは」[第17回]~2021年9・10合併号

 最近、1970年代後半から1980年代にかけて流行した日本のシティポップが音楽配信を通して世界中で人気だそうだ。今や世界はボーダレスとなり、輸入盤を探す手間もなく、音楽配信を利用すれば世界中の音楽を手軽に聴くことができる。録音媒体の進化によって、音楽の生産者、消費者も大きく変化し、音楽は身近な存在となったが、クラシック音楽だけは日本ではどうも敷居が高いようだ。
 クラシック音楽の本場であるヨーロッパでは、昔から生活に密着した音楽として皆に親しまれており、英国でもコンサートなどが頻繁に開催されるなど音楽活動が盛んである。ところが、その英国では、なぜか18世紀以降からエドワード・エルガー(1857~1934)が現れる19世紀末まで自国出身の著名な音楽家が出現していない。このように、産業革命期以降の英国に有名な英国人音楽家が現れなかったり、英国が音楽の消費地と呼ばれたりした背景や理由について、産業革命という視点から探ってみたい。
 まず今回は、中世から産業革命前までのヨーロッパの音楽史を概観したのちに、中世から英国人音楽家パーセルが活躍する17世紀後半までの英国音楽の歴史を紐解いて英国独自の特徴を捉える。

1.ヨーロッパにおける音楽の歴史

(1)中世・ルネサンス時代(5世紀~16世紀)
A.西洋音楽の起源 グレゴリオ聖歌

グレゴリオ  まず、ヨーロッパにおける音楽史を中世・ルネサンス、バロック、古典派、ロマン派と4期に分けて、ここでは中世・ルネサンス時代からバロック時代までの動きを簡単に辿る。
 中世からルネサンスにかけてのヨーロッパでは、権威を独占するローマ・カトリック教会が社会・文化の中心であり、音楽の中心もミサ曲など教会音楽であった。教会の典礼※1のための聖歌として歌われたのが、西洋音楽の起源とされるラテン語の無伴奏曲「グレゴリオ聖歌」である。中世を代表する教皇グレゴリウス1世(在位590~604)の名にちなんだもので、実際には西ローマ皇帝となったカール大帝(在位800~814)が、ローマやガリアで使われていた聖歌を統合し制定したとされる。神に捧げる祈りである典礼の音楽は、人間の声だけを使った緩やかな曲調の単旋律(モノフォニー)とされ、その音域はほぼ1オクターブと狭かった。聖歌を歌えるのは、キリスト教の教義により原則男性のみとされ、楽器も神聖な歌詞を聴こえなくするので使われなかった。


※1 ここでは、キリスト教の教会が行う礼拝集会など公の礼拝・儀式


B.教会建築と聖歌
 聖歌で単旋律が採用されたのは、前述のような理由だけでなく、教会の建築様式も影響している。10世紀末から12世紀にかけての教会は、せいぜい10数メートルの高さで窓がない石造りのドームの「ロマネスク建築」である。この建築様式では、シンプルな単旋律の歌でも音がよく響き残響時間が長かったので、荘厳な趣きが生まれた。
 12世紀後半から「ゴシック建築」が教会の主流となると、ガラスや金属を使うことで建物の高さが30~40メートルとなり、横幅も広くなったので空間がかなり広がった。この構造では反響音が少なくなり、単旋律の音楽では神聖な荘厳さが十分出せなかったので、もっと音を加えるような工夫が始まった。こうしてグレゴリオ聖歌に新しい旋律を加えて歌うようになり、複数の旋律からなる多声音楽(ポリフォニー)へと発展していくことになる。

C.ルネサンスとプロテスタント音楽の発生
 15世紀半ばから16世紀頃までをルネサンス音楽時代と呼ぶ。14世紀には十字軍の失敗、教会の内部分裂、教会の世俗化による堕落もあり、ローマ・カトリック教会の宗教的権威は衰えていた。さらに1517年の「95か条の論題」に始まるマルティン・ルター(1483~1546)の宗教改革が進むと、ヨーロッパ中にプロテスタントが広がり、キリスト教以前の古代ギリシャ・ローマの文化を原点とする人間中心のルネサンスの時代に移行する。
 カトリック教会では、従来通りラテン語がミサに使われ、ミサ曲を歌うのも専門的な聖歌隊など聖職者のみで行われたので、信者は遠くから眺めるしかなかった。ドイツ人のルターは、聖書のみが神の言葉と考え、信者が皆理解できるように聖書をドイツ語に翻訳し、説教もドイツ語でおこなった。当時は信者の識字率が低かったので、分かりやすく歌いやすい讃美歌を積極的に活用し、全員が参加できる礼拝にした。自身で作曲を手掛けるほど音楽に精通したルターのおかげで、ルター派の教会ではドイツ語の歌詞で単旋律の歌いやすい讃美歌「コラール」をもとに、数多くの作品が作曲された。一方、カトリック教会では、15世紀半ばに世俗音楽の旋律がミサ曲に用いられ、「神への祈りのための典礼」というミサの目的が希薄化していたが、トレント公会議(1545~1563)の議論でミサ曲から世俗的な部分をなくし本来のミサに戻るべきとされた。
 また、16世紀前半に貿易で繁栄していたヴェネツィアのサン・マルコ寺院で自由闊達で華やかな音楽が生まれ16世紀後半にピークを迎えている。ステレオ効果の優れた音響をもつサン・マルコ寺院の構造を生かして、いくつかのグループに分かれた合唱団が、離れた位置から交互に呼応して歌い継ぐ複合唱形式の音楽がルネッサンスとバロックとの橋渡し役となった。

D.複雑な音楽を可能とした楽譜の発展
 当時のヨーロッパの音楽作品を現在に再現できるのは、楽譜の存在が大きい。楽譜は9世紀に登場した「ネウマ譜」を起源としている。ネウマとは「息」を意味する言葉で、当初のネウマ譜は音の高さなど大まかな旋律の動きを示したものだった。その後、さらにリズムや音の長さを表そうと試行錯誤した結果、13世紀後半には音符の種類を決める定量記譜法が試みられ、14~15世紀には現在の楽譜に近いものができた。楽譜の書き方がルール化されたことで全員が楽譜にあわせて歌えるようになり、複雑な音楽の作曲も可能となったが、当時の手書きで彩色された楽譜は高価な美術工芸品であり、そのコレクションは王侯貴族や教会の富の象徴となっていた。オリジナルの楽譜から手で書き写された楽譜は、転記ミスが多かったらしい。
 やがて印刷技術が発達し、ヴェネツィアでペトルッチ(1466~1539)が活版印刷を用いて、人気が出そうな曲集を1501年から次々と出版すると、多くの人が楽譜を手に入れられるようになった。

(2)バロック時代(1600年~1750年)
A.イタリア・フランスの繁栄とオペラ誕生

 ルネサンス時代は「調和」を重んじたが、「いびつな真珠」を意味するバロック音楽は、音量の強弱やテンポの差の対比によって誇張的で動的な効果を演出するのが特徴である。北イタリアでストラディヴァリ(1644頃~1737)などヴァイオリンの名工が現れ、素晴らしい楽器が作られると、器楽と声楽は対等な立場となり、協奏曲(コンチェルト)が17世紀終わりにはバロック音楽の代表的ジャンルとなる。12曲のヴァイオリン協奏曲を集めたヴィヴァルディ(1678~1741)の『四季』が有名である。
 古代ギリシャ演劇を復活させようという動きから始まったオペラは、一握りの王侯貴族の楽しみとして、17世紀初頭にイタリアのフィレンツェに登場し、その後発展すると総合芸術としてヨーロッパ中で音楽活動の中心となる。フランスではルイ14世(在位1643~1715)に代表される絶対王制のもとで、王の権威や都市の栄光を誇示するために絢爛豪華なオペラやバレエがヴェルサイユ宮殿を中心に数多く演奏され、ルイ14世も自らバレエを踊っていた。

B.調性音楽と公開音楽会の開催
 ハーモニーの面では、フランスのラモー(1683~1764)が1722年に『和声論』を出版し、同年に「音楽の父」と呼ばれるドイツ人のJ.S.バッハ(1685~1750)が24の調による前奏曲とフーガを集めた『平均律クラヴィーア曲集第1巻』を完成させた。この理論と作品により、長調と短調の「調性音楽」が確立され、1900年頃までクラシック音楽の主流となる。バッハは、大半をプロテスタントの宗教音楽のために作曲したが、鍵盤奏者としても有名であった。また、英国に帰化し、50年間ロンドンを拠点として活躍するドイツ人音楽家のヘンデル(1685~1759)も、バッハ と同じ年に生まれた。
 バロック時代までの音楽家は、君主や教会の注文に応じて作曲する職人という存在にすぎなかった。当時の演奏会は、王侯貴族の邸宅などでお抱え音楽家によって演奏されるのが普通で、庶民が音楽を聴ける場は教会ぐらいであった。17世紀後半から入場料を払って鑑賞する公開演奏会が始まるのだが、値段的には高嶺の花で庶民が気軽に行けるようなものではなかった。

2.英国の音楽

(1)中世・ルネサンス時代
A.英国独自の音楽

 中世の英国音楽は、他国と同様にカトリック教会の影響が強かったのだが、14世紀前後からフランスに次ぐ多声音楽の先進国として独自の展開が見られた。その頃に作られた作者不詳の「夏は来たりぬ」という歌曲は、複数のパートが同じメロディーを追いかけていくカノン形式の楽曲としては最古のものだ。また、フランスの技法「アルス・ノヴァ」※2を取り入れた英国人音楽家ダンスタブル(1390頃〜1453)の新しい音楽は、ヨーロッパ大陸に逆輸入され影響を与えた。多声音楽においても、3度や6度の音を重ねるという英国独特の柔らかい楽曲は、4度や5度の重なりの硬い響きが主流であったヨーロッパ大陸の楽曲に影響を与え、双方が融合することでルネサンス音楽の方向性を決定づけたとされる。英国と大陸との文化的な融合が生まれた背景には、英仏両国に領土をもったフランスの大諸侯アンジュー伯が、プランタジネット朝を継承し、英国王となっていたという状況が影響している。しかし、その後英国ではフランスとの百年戦争(1339~1453)やバラ戦争(1455~1485)、ペストの流行があり、音楽どころではなくなり英国の音楽はしばらく停滞する。


※2 フランスの音楽家ヴィトリが、14世紀初頭の新しい音楽のリズムの分割法と記譜法を理論的にまとめ、それをアルス・ノヴァとして発表したもの


B.音楽愛好者ヘンリー8世による英国国教会設立
 テューダー朝のヘンリー8世(在位1509〜1547)の治世に入ると、音楽に復興の兆しが見える。ヘンリー8世は自身で作曲し、重臣たちと重唱を楽しむほどの音楽好きで、膨大な楽器のコレクションを持っていた。また彼は、宗教改革者ルターを批判する本を出版し、ローマ教皇から「信仰の擁護者」の称号が与えられるほど熱心なカトリック信者であったが、離婚問題を巡ってローマ教皇と対立し、1534年に英国国教会を成立させる。すべての修道院を解散させ、教会財産を没収したので、一挙にカトリック音楽の基盤が失われた。英国国教会の典礼は、当初はラテン語のままであったが、徐々に英語による典礼が一般化し、英国独自の礼拝形式とそれに伴う音楽が生み出された。16世紀初頭の代表的な英国人作曲家としては、ウィリアム・コーニッシュ(1465頃~1523)やトマス・タリス(1505頃~1585)などがいる。

(2)バロック時代
A.エリザベス1世時代の多様な教会音楽
 その後、メアリ1世(在位1553~1558)の時代には一時的にカトリックに戻るが、エリザベス1世(在位1558~1603)の時代には英国国教会が再開される。音楽好きでリュートの演奏が上手だったエリザベス1世は、カトリック教徒に比較的寛容な政策をとったので、カトリック礼拝のための音楽も少ないながら作曲された。この時代は宗教的に不安定な時期であり、音楽家はカトリックとプロテスタントの間で翻弄され大変だったであろうが、音楽的にはカトリックと英国国教会双方の作品が英国で生み出された。また、17世紀初頭に英国の芸術で人気のあったのはシェイクスピア(1564~1616)に代表される演劇であり、音楽はあくまで演劇の中で歌われる添え物という存在でしかなかった。流行の面でも、大陸がバロック時代へと移行していても、ジェームズ1世(在位1603~1625)が即位した頃の英国では、一世代前のルネサンス時代そのままの音楽が盛んであった。島国の英国では、戦争などで大陸との接触がなくなると新たな流行が入ってこなくなるので、大陸ではすでに廃れた音楽技法が大切に守られて、その技法がさらに複雑で技巧的なものとなる傾向があった。

B.ピューリタン革命で停滞し王政復古で復活
 1649年のピューリタン革命でクロムウェル政権が登場し共和制に移行すると、英国は音楽の低迷期に入る。ルター派より厳格なプロテスタントであるクロムウェル(1599~1658)は、演劇や音楽は人間を堕落させるものとして、教会の音楽をほぼ廃止としただけでなく、礼拝堂の合唱団を解散させたり、教会のオルガンを破壊したりした。職を失った音楽家たちは、国外へ渡った者も多かった。
 1660年に王政復古となり、フランスで亡命生活をしていたチャールズ2世(在位1660〜1685)は英国に帰国すると、優雅で豪華なフランスの文化を積極的に英国へ取り入れようとした。音楽好きだった彼は、ヴェルサイユ宮殿で演奏されていた音楽を英国に取り入れるために、ルイ14世の楽隊を真似て楽団を設立し、所属する音楽家たちをフランスやイタリアに留学させた。さらに、イタリア・オペラを導入する試みも始まり、17世紀半ばにようやくバロック様式の音楽が英国でも開花した。こうして英国では音楽が盛んになり、音楽史上記録に残るものとしては世界初の公開演奏会が、1672年にロンドンで開かれた。ヴァイオリニストのジョン・バニスター(1630頃~1679)が自宅で催し、プロの演奏家に好きな曲がリクエストできる気楽な形式のものだったが、入場料1シリングは庶民にとって相変わらず高嶺の花であった。

C.天才音楽家パーセルの登場と名誉革命
ヘンリー・パーセル エリザベス1世  そうした時期に、英国音楽史上随一の天才とされたヘンリー・パーセル(1659~1695)が現れた。英国のモーツァルトと呼ばれ、優雅で気品高い作品を800曲以上残した。もともと王室礼拝堂のオルガニストであったパーセルだが、鍵盤楽器の独奏曲や合奏曲だけでなく、英語による声楽曲やオペラを作曲した。英国国教会特有の礼拝音楽「アンセム」をはじめ、祝典用の頌歌しょうか、歌曲、酒場の歌など数多くの作品がある。
 1688年に名誉革命が起こり、オランダのオレンジ侯は妻のメアリ2世(在位1689~1694)の共同統治者となり、ウィリアム3世(在位1689~1702)として即位する。ウィリアム3世は宮廷の音楽などへの支出を快く思わず、音楽のための予算を減らした。音楽家は良い収入を得るために、音楽活動の対象を劇場や市民に変えていったので、音楽の担い手が王侯貴族から一般市民へと次第に移行する。
 そこでパーセルは、これまで演劇の添え物であった劇中挿入歌を充実し、当時上演されていた仮面劇に豪華な舞台装置を加えて音楽、舞踊を活用する「セミ・オペラ(準オペラ)」と呼ぶ演劇を5作品つくった。セミ・オペラでは劇の間に歌や舞踊が挟まれ、主な登場人物の役割は台詞だけで、歌については脇役が歌った。さらにパーセルは、トロイの王子とカルタゴの女王の悲恋を題材にした叙事詩『ディドとエネアス』という英語のオペラも作り上げた。この作品は、上演時間約1時間と短いが、全体を通して歌が歌われるものだった。しかし、この八面六臂はちめんろっぴの活躍をみせたパーセルが36歳の若さで亡くなると、それ以降独創性のある生粋の英国人音楽家は長い間生まれてこないのであるが、その背景については次号の中で詳しく触れたい。


 ヨーロッパの中世以降における音楽の担い手は、権力の変遷と同様に教会、王侯貴族、富裕市民層と移行しているが、島国の英国は英国国教会の設立、ピューリタン革命、王政復古、名誉革命などを経験して、海を隔てたヨーロッパ大陸とは異なった英国独自の音楽の歩みを進めてきたことが分かる。
 次回は、まず「音楽家兼プロデューサー」であるヘンデルが活躍したバロック後期を取り上げ、それにつづく古典派、ロマン派の時代のヨーロッパと英国における音楽の歴史を辿り、産業革命でさらに力をつけた裕福な市民層の動きを中心に産業革命が音楽に与えた影響などを探る。

 

AI時代からの考察:「18世紀の英国で産業革命が起きた訳とは」[第16回]~2021年8月号

 朝の連続テレビ小説『おかえりモネ』のなかで、森林組合で働く主人公のモネこと百音ももねは、地元の広葉樹ナラの木を利用して、地域の小学生が使う学童机を製作しようと提案する。組合の職人たちは、伐採した木を丁寧に加工して机の試作品を完成させ、市の入札に参加しようとするが、月30台の製作が限界の組合では「4200台の机を半年以内に納入」という入札の条件を満たせず暗礁に乗り上げる。モネは、丹精こめて職人が作る森林組合の机が、大量生産される低価格の大手メーカー製の机に対抗できないのが残念でならない。
 19世紀に同じような悩みを抱いていたのが、前月号から続くモダン・デザインの父ウィリアム・モリス(1834~1896)である。英国の産業革命は大量生産を可能にすると同時に品質の低下をもたらした。モリスは、そうした状況を批判する一方で、モノづくりに熱心に取り組んだ。何事も徹底的に極めたい性格のモリスには、自らモノづくりのプロセスに加わることが大きな喜びであった。
 今回は、彼が40歳以降に夢中となったテキスタイルや壁紙の制作、それに付随する捺染なっせん※1や染色、そして美しい書物の制作への取り組みを辿り、最後に「アーツ&クラフツ運動」が影響を与えたと言われる柳宗悦やなぎむねよしの「民藝運動」にも触れる。

1.マルチ人間ウィリアム・モリスの略歴

 まずは、多才なモリスが27歳で会社を興す時期を起点に彼の生涯を簡単に辿ってみる。
 1861年、新居「レッドハウス」の建設を機に「モリス・マーシャル・フォークナー商会」を設立した。インテリア、壁面装飾、彫刻一般、宝石装飾や金工、家具、押し型革細工、刺繍ししゅうや家庭用品など、あらゆる工芸・芸術製品を提供し、30歳の時には最初の壁紙『格子垣(トレリス)』『ひなぎく』『果実あるいは柘榴ざくろ』をデザインした。この頃から、父親から相続した株の価格が下落することにより、モリスの収入が激減して商会の経営が厳しくなった。
 一方で、36歳の時には長編物語詩『地上の楽園』を刊行し、詩人としての評価を不動のものとした。中世の彩飾写本さいしょくしゃほん※2に興味があるモリスは、その頃から彩飾手稿本さいしょくしゅこうぼん※3の制作を始め、美しい手稿本を作り上げるためにさまざまな書体を学ぼうとカリグラフィー※4の研究にも入れ込んだ。モリスの愛妻ジェーンは、何事にも度を越して熱中する夫に愛想をつかし、夫の師匠である画家ロセッティと親密な関係になる。皮肉にもこの時の辛いモリスの心情を綴った詩集は高い評価を受ける。
 1875年(41歳)に共同出資の「モリス・マーシャル・フォークナー商会」を解散し、モリス単独で「モリス商会」を再スタートすると、テキスタイルや壁紙を中心とした商売に転換した。テキスタイル部門では、刺繍から始まり、捺染、機械織、絨毯じゅうたん、タペストリーにと次々に事業化していった。その活動の中で、彼はデザインだけでなくテキスタイルの染色にもこだわり、47歳の時にはロンドン南西部のマートン・アビーで染色工場を開始し、2年後には織機も設置して織物の製造も始めた。
 50歳の頃にモノづくりの理想と現実のギャップに悩み、社会主義運動の方へ傾倒していくのだが、54歳の時、「第1回アーツ&クラフツ展」でエメリー・ウォーカーの印刷に関する講演を聴き、印刷への関心が高まる。そして、57歳の時には印刷工房「ケルムスコット・プレス」を自宅近くに設立することになる。
 2年がかりで念願の『ジェフリー・チョーサー作品集』を完成させた62歳の秋、健康状態が悪化し死去する。まさにモリスの言葉通りの「美しい家と美しい書物をこよなく愛した人生」であった。


※1 染料を糊に混ぜ、直接布地に摺りつけて染色すること。特に、型を用いた模様染めをいう。プリントともいう。

※2 手書きで筆写し、彩色で飾られた本

※3 彩色で飾られた著者自身の手書きによる本

※4 西洋や中東などにおける字を美しく見せる手法で、アルファベットを独特のタッチで描く技術


2.テキスタイル

(1)捺染なっせん(プリント)の歴史
まずは、英国での捺染の歴史を簡単に振り返る。17世紀の英国では、インドから渡来した染色文様の綿布であるチンツ※5が、丈夫で色彩も美しく大変人気があった。インドでは、媒染剤ばいせんざい※6で文様を手書きした木綿地を染料の茜につけて、描かれた部分の色を定着させる方法をとっており、多種多様な媒染剤の濃度を変えることで、さまざまな種類の色を生み出すことができた。次第に英国では、インドからの輸入分だけでは国内の需要を賄いきれなくなり、インド産チンツと同等なものを英国内で生産しようとする動きが出てくる。
 1676年にウィリアム・シャーウィンが木版プリント(型押し)と媒染剤による染色技術を結び合わせてインド産チンツの模倣を可能にすると、ロンドンを中心とした水量豊かな場所に木版プリントの捺染工場が多数設置された。ところが、18世紀後半には銅板プリントの登場によって状況が一変する。銅版は、木版よりはるかに繰り返し利用ができて精巧で繊細な図柄が描けるので一挙に主流となり、神話的題材や田園風景、当時流行の中国趣味の図柄などを中心に多様なデザインのものが生産された。
 その後、産業革命期に紡績機が発明され紡績業が発達すると、綿布の生産拠点がロンドンからイングランド西北部のランカシャーへ移行する。この地域は湿気が多く、湿度不足による品質のばらつきや糸切れを起こす心配がないので、英国全体の綿布を供給する一大産地となった。それと同時に地の利を生かして当地でも捺染産業が発展するのだが、ここでは木版の多色プリントの捺染工場が主体となり、花のデザインを基本とするさまざまなパターンが制作された。一方の銅版プリントが主体であるロンドンの工場主は、値下げでランカシャーに対抗しようとするが、質を落したことで逆に人気を失い1800年までにはロンドンのほとんどの業者は廃業することになった。
 1815年頃から、銅版ローラー・プリンティングが普及し始めた。金属円筒の側面に絵柄を彫って回転させてプリントする方式であるが、初期は出来栄えが安定せず、安物専門の業者が粗野な絵画的パターンに利用していた。しかし、1830年頃にこれまでの植物動物系の染料に代わって鉱物染料や化学染料が現れると、銅版ローラー・プリンティングとの相性の良さから大量生産が可能となる。儲け主義のランカシャーの捺染業者は、海外市場や国内向けの安い織物を大量生産することに躍起となり、製品の染色やデザインを重視しなくなった。手間がかかる昔ながらの木版プリントの方は、さらに衰退することになるが、細々と残っていた。


※5 更紗さらさともいう。インドを起源として2色または多色の人物、鳥獣、植物など種々の模様を捺染した綿布。
英語でチンツ(chintz)と呼ばれた。

※6 染料を繊維に定着させるために用いられる薬剤



(2)天然染色へのこだわり
 モリスは39歳の時にすでにチンツのデザインに取り掛かっていたが、当時主流であったローラー・プリンティングによる製品の色合いに満足できなかった。彼は、「デザインの成否を決めるのは、捺染で処理された発色の出来栄えだ」と考え、チンツの捺染工程の研究に没頭した。その頃出回っていたコールタールなどから作られる速乾性の化学染料は、安く、速く、簡単に染めることができ、大量生産には最適であったのだが、当時の技術水準では品質が不安定で、色落ちや褪色たいしょく、変色など堅牢性に欠けており、色合いも粗野で品が悪いものが主流であった。
 モリスは、幼い頃から中世の素晴らしい刺繍やタペストリーの一級品だけでなく、美術館でインドの捺染やペルシャの絨毯など海外の歴史的な傑作を数多く観ていたので審美眼が養われていた。自分を納得させるような美しい布をつくるには、「模様を版木の型で染める」という昔ながらの版木捺染を再現し、その当時すでに途絶えていた草木染で使う藍や茜など天然染料を復活させるしかないと考えた。しかし、当初は思うような成果が得られなかったので、あらゆる植物染料の文献を求めて徹底的に勉強するだけでなく、自ら工房で洗濯や日光などによる染めへの影響を何度も繰り返し実験した。
 さらに本格的な実験に取り掛かるためには、当時のクィーンズ・スクエアの工房では手狭で設備も不十分なので、スタンフォードのリークに工房を移した。
 苦労の末に完成した藍染めの色合いに感激し、ますます染色への好奇心と探求心を強めたモリスは、より質の良い製品をつくるために、豊かな自然の光と染色用の澄んだ水に恵まれた新たな工房の候補地を探し始める。そして、ついにマートン・アビーにチンツ工場として使われていた旧修道院の建物という理想的な場所を見つけ、1881年に引っ越すのであった。
 これ以降、工房の完成とモリスのテキスタイル・デザインへの高い人気により、受注が急激に増えることになる。特に、近くのウォンドル川の軟水を用いた藍の抜染ばっせん※7での実験が成功すると、モリスの製品はさらに人々を魅了し、名声を高めた。
 彼は、常に天然の素材の美しさを最大限に生かそうと心掛けた。最良の材料で良心的に制作された彼のテキスタイルは、デザインが素晴らしいだけでなく、耐久性にも優れていた。


※7 無地染めした布に還元剤や酸化剤を含む抜染糊をプリントし、その部分の色を抜いて模様をつける染色法。ぬきぞめともいう。


(3)デザインへのこだわり
 モリスのデザインは、卓越した色彩センス、草花の描写における繊細さと大胆さの結合、豊かで丹念であるが自在さを失わないパターンの創出を特徴としており、流行的なものと異なり、古典的でどの時代でも通用する普遍性を有するところが魅力である。それが今日でもなお人気がある理由であろう。壁紙やテキスタイルのデザインは、一貫して薔薇、百合、チューリップなどの野の花や、小鳥などの小動物をパターン(繰り返し模様)として使っている。これらの着想は、四季折々の草花や果樹であふれるモリス自慢の自宅レッドハウスの庭から生まれたものだ。彼は、平面的なパターン・デザインが過度に写実的な自然描写となることを嫌う一方で、形式化やデザイン化を求め過ぎて自然描写の良さを失うことにも反対であった。
 1875年から1885年の間はテキスタイルのデザイン活動に熱中し、草花をモチーフとした彼の特徴である平面的デザインについても、壁紙やテキスタイルの特性に応じた工夫をした。平面的に張られる壁紙は、形式的な図柄の反復だけでは見る者が飽きるので、わざと自然の不規則さをデザインに取り入れ、一方でカーテンなどのテキスタイルでは、ひだを寄せたり、畳んだりした状態で見られることを意識して、生地が歪んで曲面となってもパターンが確認しやすいように、より形式的なデザインを使った。
 ちなみにテキスタイルでは、既存の業者では満足できず基本的にモリスがすべての工程に関わって制作したが、壁紙においては、信頼できる木版プリントのジェフリー社に依頼している。
 しかし、こうして納得がいくものを作ろうとすると製品の値段が高くなり、「最小の経費で最良のものをつくる」という商会の目的は果たせなくなり、次第に社会主義へと傾倒していくことになる。

3.美しい書物づくり

 中世のヨーロッパでは識字率が低く、文字が扱えるのは修道士ぐらいだったので、修道院の写本室で、修道士が羊皮紙ようひしの製造から装幀そうていに至るまで全工程を担い書物の写本を作成していた。12世紀には写本による聖書の生産量がピークに達し、12世紀の終わり頃からオックスフォード大学やケンブリッジ大学などが設立されると、文献の写しへの需要が増加して写本市場はさらに拡大した。
 そうした歴史から、モリスが学ぶオックスフォード大学のボードリアン図書館では、多くの中世写本を所蔵し、そのコレクションは世界的に有名であった。モリスは、手書きで筆写された中世の彩飾写本をその図書館で発見し、飾り頭文字(イニシャル)や縁取り、カーペットページ※8などで華麗に装飾された宗教的な内容の装飾写本に魅入られた。
 ゴシック・リバイバルの流行の中で、モリスは22歳の時に著作者兼製本者となる彩飾手稿本を制作し始めた。中世後期の写本を模した彼の本は、彩色のある縁飾りと飾り頭文字のある、非常に重々しいゴシック的なものであったらしい。32歳頃から、今度はカリグラフィーの研究に入った。当初は16世紀イタリア・ルネッサンスの手習い本で勉強するが、36歳の時には読みやすく全体的に開放的で伸び伸びとした手書き書体のローマン体を研究するようになる。その研究成果を生かして自選詩集などで挿絵、装飾、飾り頭文字など華麗な飾りを付けた彩飾手稿本を制作するまでになった。装幀にも手を染めると、さらには自分で印刷を手掛けたくなった。
 56歳から活字体の研究を始めると、新しい活字の字面をデザインする仕事に着手する。シンプルでがっしりした字体を好んだモリスは、15世紀のヴェネツィアで使われたローマン体の活字をもとに新しい活字体「ゴールデン活字」を創ったり、読みにくいと非難されていたゴシック体をベースに「トロイ活字」や「チョーサー活字」を考案したりした。印刷用紙にも質を追求し、自分の本には手漉きの紙を使用させた。
 美しい書物を作るために、字間、行間などだけでなく、文字が配置される版面の外のマージン(余白)の比率などにもこだわり、印刷物における文字の体裁を整える活版印刷術(タイポグラフィー)を編み出した。特にページの上下左右のマージンの比率を設定する「モリスの法則」は、現在でもデザインの基本とされている。
 彩飾写本、カリグラフィー、雑誌の編集、自作の詩や散文の出版などを通して魅力的な書物の在り方を考えていたモリスは、1891年(57歳)ついに印刷工房「ケルムスコット・プレス」を設立する。このプレスの傑作となる『ジェフリー・チョーサー作品集』は1895年11月にデザインが完了し、1896年6月に印刷を終えた。モリスは、彼の夢であった「美しい書物」の印刷を完成させ、その4カ月後に亡くなった。モリスの主治医は、「一人で十人分以上の仕事をこなし、そのために亡くなったのだから、病名はウィリアム・モリス病だ」と語ったそうだ。


※8 抽象文様で埋め尽くされたページのこと


4.民藝運動と柳宗悦やなぎむねよし

ジェフリー・チョーサー作品集 いちご泥棒  「アーツ&クラフト運動」は、日本の「民藝運動」に影響を与えたと言われる。「民藝」とは民衆が日常に使う工芸品を指し、民藝運動は1926年に「日本民藝美術館設立趣意書」の発刊により開始された。柳宗悦(1889~1961)は、伝統によって生み出された実用的な工芸品のなかに美を見出し、英国人バーナード・リーチや濱田庄司、河井寛次郎、富本憲吉をはじめとする陶芸家などが民藝運動に参加した。
 柳は、「並々ならぬ修行で腕を磨いてきた職人の技は誰でもすぐにできるものではない」と職人の仕事を高く評価した。一般的に美術品には作り手の名が銘や落款で記されているが、工芸品には職人たちの名がどこにも記されていないので、名前のない工芸品の価値は正当に評価されないことが多い。そうした見方を是正したい柳は、日本が素晴らしい手仕事の国であることを実際に確認するために全国津々浦々を回り、1948年に著書『手仕事の日本』を発刊した。
 またモリスと同様に柳は、「利益本位の機械生産で出来たものは粗末になりがちであり、人間が機械に使われるのでは働く人の喜びも奪ってしまう」と機械生産を批判した。「機械には心がないが、人間の手はいつも心と直接つながっているからこそ、品物に美しい性質を与える。手仕事は心の仕事である」と著書で訴えたのである。
 モリスと柳はゴシックの中世美を愛する点で似ており、柳自身も「アーツ&クラフツ運動」の基本理念に共鳴していたが、美術は工芸より上等だとするモリスの考えには異議を唱えた。モリスがそう考えたのは、画家を目指していたからであろうが、モリスと柳の二人が工芸を愛し工芸の発展に多大な貢献をしたことは間違いのない事実である。


 モリス商会が1940年代に倒産したあと、モリス・デザインの大部分は他社に買い取られ、「Morris&Co」というブランド名で今でも主に布製品と壁紙で販売されており、時代を超越して根強い人気がある。
 次回のテーマは、産業革命期における英国のクラシック音楽についてである。英国人に帰化したドイツ人のヘンデル(1685~1759)やエルガー(1857~1934)、ホルスト(1874~1934)ぐらいしか作曲家の名前が思いつかない英国であるが、産業革命期における音楽家の置かれた状況や楽器の進歩などに焦点を当てる。

 

AI時代からの考察:「18世紀の英国で産業革命が起きた訳とは」[第15回]~2021年7月号

 産業革命のおかげで豊かになった19世紀後半の英国では、美術鑑賞が人気となる一方で、美術画壇を牛耳るロイヤル・アカデミーは伝統を重んじるようになり、画家たちに型通りの伝統的な画法を強いるようになった。こうした風潮に反発した若い画家たちは、美術評論家ジョン・ラスキンの芸術論を精神的支柱として、第1期のラファエル前派※1を結成した。ラスキンは、近代画家論のなかで「愛すべき自然をありのままに再現すべきだ」と提唱するとともに、「工場労働者の劣悪な環境や熟練職人の厳しい状況を改善すべきだ」として機械文明を批判していた。
 このラスキンとラファエル前派の画家ロセッティを慕って、オックスフォード大学を出た画家志望のウィリアム・モリスとエドワード・バーン・ジョーンズの二人が第2期のラファエル前派※1に加わることになる。さらにラスキンの考えに共鳴するモリスは、工芸・装飾美術を復興しようと「アーツ&クラフツ運動」を始める。彼は職人たちの手仕事が喪失していく状況に危機感を抱き、工芸を中心に芸術的価値を取り戻し、職人の地位向上を求める運動に熱中するのである。
 今回は、ラスキンの思想を出発点とした「ラファエル前派の登場」から、ラスキンの思想的後継者たるウィリアム・モリスが「アーツ&クラフツ運動」を起こすまでの動きを辿る。まずは、モリスがラスキンやラファエル前派の画家たちと出会うまでの流れを追う。

1.ラファエル前派

(1)権威が高まってきた英国美術画壇
 英国の最盛期であるヴィクトリア王朝期(1837~1901)には中産階級が力をつけてきたことで、美術への人気が高まる。ロイヤル・アカデミーの年次展覧会の年間入場者数は1830年には7万2686人であったものが、1879年には39万1190人と約50年間で5倍以上となり、美術人気の盛り上がりがうかがえる。鉄道の発達のおかげで、他の地域で展覧会が開催できるようになったことも人気を後押しした。それとともに、優秀な芸術家を育成し、芸術家の地位を向上させることを目的に設立されたロイヤル・アカデミーの権威が高まった。このアカデミーでの伝統的な手法は、初代会長レイノルズ(1723~1792)が信奉したイタリア・ルネサンス最盛期の代表的画家ラファエロ(1483~1520)※2の画法であった。


※1 ラファエル前派は画家ミレイがロイヤル・アカデミー準会員となったことを契機に一旦自然消滅したため、当初のものを第1期、復活後を第2期と呼ぶ。

※2 イタリア語ではラファエロ(Raffaello)だが、英語ではラファエル(Raphael)と発音するため、人名はイタリア語を、英国で生まれた「ラファエル前派」は英語読みを採用している。


(2)ラファエル前派の設立経緯
 当時のロイヤル・アカデミーではラファエロを規範とする表現しか認められず、若い画家たちは、構図、色彩など型通りの技法を強いられて辟易へきえきしていた。そうした伝統主義に反発したロセッティ、ミレイ、ハントら20歳そこそこの若者たち7人は、1848年に「ラファエロ以前の初期ルネサンスの画家がもつ素直な眼を取り戻す」ことを目指して「ラファエル前派」(正式名:ラファエル前派ブラザーフッド(兄弟同盟))を結成した。美の共通理念としては、自然主義、道徳主義、劇的表現を掲げていたが、画法での統一性はあまりなく、画家によって作風はかなり違っていた。

(3)ラファエル前派の擁護者ラスキンの生涯
 芸術論でラファエル前派を支えたジョン・ラスキンは、1819年に裕福なシェリー酒商人の父と、敬虔けいけんなプロテスタントの母との間にロンドンで生まれた。スコットランド出身の両親は芸術と旅を愛し、息子のラスキンが将来聖職者になることを夢みていた。両親との旅行は物見遊山ではなく、絵画や彫刻をじっくり観賞したり、スケッチしたりしたので、ラスキンは幼い時から美術への審美眼と観察力が鍛えられていた。また、幼い頃に「中世の世界」と「風景画家ターナーの作品」に出会い、その素晴らしさに魅了されていった。
 オックスフォード大学に入学後、1840年に憧れのターナーに会うと、さらに芸術への興味が高じて、1843年に若干24歳で「近代画家論第1巻」を発刊する。緻密な観察力や文章力に加えて、膨大な研究資料による評論は高い評価を受けた。彼は美術評論家として名声を上げると、世間から非難を浴びていたラファエル前派の画家たちの活動を熱心に擁護した。
 また、彼は絵画美術だけでなく、建築や社会構造も研究対象とした。特に、当時粗野で不完全とされていた中世のゴシック建築物を再評価するために「ゴシックの本質」を刊行した。この本では中世の職人と19世紀の工場労働者の労働環境を比較し、「仕事の分業化により労働者の仕事は単純労働化され、自分一人では釘の1本も作れなくなった」と機械文明を批判する一方で、中世の熟練した職人の手仕事を高く評価している。
 ラスキンは、父親の収入と遺産のおかげで生活の心配をする必要がなかったので、思う存分美術評論や社会活動に没頭できた。1848年に10歳年下のユーフィミア(1828~1897)と結婚するが、彼にとって妻は眺めるだけの存在で、本当の夫婦とは言えなかった。この不幸な結婚は、夫婦関係に不満を募らせていた妻ユーフィミアが、画家ミレイとの出会いで真の愛に目覚め、ラスキンとの離婚を決意するという悲しい結末が待っている。
 ラスキンは1878年頃から精神を病み、1900年に永眠した。

(4)神童と呼ばれた画家ミレイの脱退
 第1期ラファエル前派の幕引き役となったジョン・エヴァレット・ミレイは1829年に英国のサウサンプトンの裕福な家に生まれ、フランス近くのジャージー島で育った。美少年で幼い頃から画才があったので、彼の両親は息子の才能を伸ばすためにロンドンに転居する。
 1840年に史上最年少の11歳でロイヤル・アカデミーに入学し、アカデミーの神童と呼ばれるようになるが、ミレイは「ラファエロの模倣ではなく、それ以前の絵画の初心に戻ろう」という趣旨に賛同してラファエル前派に加わり、熱心に自然観察をして写生をおこない写実性を高めた。そうした苦労が結実し、1852年のロイヤル・アカデミー展に出品した「オフィーリア」が高い評価を得る。この時のモデルとなったのが、のちにロセッティの妻となるエリザベスである。細部まで正確に描きたいミレイは、エリザベスをランプで温めただけの水風呂に入れて、4カ月以上ポーズを取らせた。ミレイの過酷な要求のせいで風邪を引いたエリザベスは、ミレイから50ポンドの慰謝料を受け取ったらしい。「オフィーリア」で名声を得たミレイは、1853年にロイヤル・アカデミーの準会員に選ばれ、体制派に鞍替えする。この時点で、ラファエル前派は一旦自然消滅することになる。
 ラスキンに気に入られて資金援助も受けていたミレイは、1853年にラスキンからスコットランド旅行に誘われる。この旅行で、若くハンサムなミレイとラスキンの美しい妻ユーフィミアは恋に落ちる。ミレイと結婚したいユーフィミアは、夫の身体的理由で実際の夫婦生活はなかったとして、ラスキンとの結婚無効訴訟を申し立てた。必死の思いで翌年に離婚を成立させると、多くの非難に耐えて1855年に二人は結婚に至り、8人の子供にも恵まれ幸せな生活を送る。しかし、結婚の経緯からヴィクトリア女王に睨まれて王室からの仕事が途絶えたミレイは、大家族の生計を維持するために収入の良い大衆向けの肖像画を描くことに専念した。画才のある彼は当代きっての人気画家となり、収入も増えて裕福となる。温厚で人柄が良い彼は、1885年には準男爵位を与えられるなど社会的地位も上がり、1896年にロイヤル・アカデミー会長に任命されるのだが、同年に喉頭がんでロンドンの自宅で亡くなった。

(5)ラファエル前派の復活と画家ロセッティ
 第1期活動に参加し、形を変えて第2期ラファエル前派として復活させるのがロセッティである。
 ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティは1828年にロンドンに生まれた。父親はイタリアからの政治亡命者で詩人かつダンテ研究家であった。ロセッティは早くから詩と絵画に才能を発揮し、17歳でロイヤル・アカデミーに入学すると、ここで出会った6人の仲間とラファエル前派を結成した。
 ロセッティにとって創作上のインスピレーションの源は、女性たちとの恋愛であった。1850年にロセッティは、画家志望で帽子屋の売り子だった美しい娘エリザベス・シダル(1829〜1862)をモデルに雇う。ロセッティは彼女に詩人ダンテの恋人ベアトリーチェのイメージを見出すほど夢中になり、それ以降彼女をモデルに熱心にデッサンした。しかし、浮気性のロセッティは、1856年に娼婦ファニー・コンフォース(1835〜1906)をモデルに雇うと今度は彼女の官能的な美の虜になる。また彼は、1857年に壁画のモデルとして18歳のジェーン・バーデン(1839〜1914)を見つけだすと、首が長くすらっとした体つきと大きな眼の彼女にも好意をもった。一方でロセッティを想い続けるエリザベスは、彼の浮気のたびに心身ともに消耗させられていた。そんなエリザベスの苦しみに気づいたロセッティは、彼女への罪の意識から1860年に彼女との結婚に踏み切るのだが、1862年に彼女は薬物の過量服用で急死する。
 ロセッティは、ミレイのアカデミーへの鞍替えで自然消滅していたラファエル前派を、第2期活動として再興する。写実面で力不足の彼は、細密な風景画に飽きて、豊かな肉体を備える成熟した女性の絵ばかり描くようになる。第2期のラファエル前派は写実主義ではなく、清らかさと神秘的な雰囲気を併せもった艶めかしい魅力の女性像を題材にすることで感覚的で耽美たんび的なものになった。彼はキリスト教社会では「罪の象徴」とされている「女性の長い髪」をしばしば描いた。
 1856年頃、このようなロセッティを慕って画家志望のウィリアム・モリスとエドワード・バーン・ジョーンズが第2期ラファエル前派に加わる。その後1868年頃になると、妻に先立たれたロセッティは、かつてのモデルで今はモリスの妻となっていたジェーン・バーデンへの恋を再燃させる。ロセッティを崇拝すると同時に自分の妻も失いたくないモリスは、奇妙な三角関係を受け入れて、一時期モリス一家はロセッティとの共同生活をしている。奔放なロセッティであったが、その後亡き妻エリザベスへの想いから精神を病み、1882年に永眠した。

2.アーツ&クラフツ運動

(1)ウィリアム・モリスの幼少から学生時代
 ここからは、第2期ラファエル前派に加わったモリスが、ラスキンの影響を受けて工芸に傾倒していく過程を辿る。ウィリアム・モリスは1834年にロンドンの北東ウォルサムストウに生まれた。父親は英国中流階級の富裕で保守的な家柄の出身であり、ロンドンのシティの金融マンであった。株で大儲けしたモリス一家は、1840年にすぐ近くのウッドフォード・ホールの大邸宅に転居した。豪華で大きな屋敷、広大で豊かな庭、それに続く美しい森など、幼い頃見た風景が彼の芸術の原点となる。彼が13歳の時に父親が亡くなり、母子家庭となって小さい家に引っ越したが、生活には困らなかったようだ。
 1853年にオックスフォード大学に入学すると、親友となるメッキ職人の息子エドワード・バーン・ジョーンズ(1833~1898)と出会う。ジョーンズからさまざまな人たちを紹介されたモリスは、詩や美術、建築に目覚め、ラスキンの著作などを通してゴシック建築やラファエル前派に興味を持つことになる。階級的に差があるモリスとジョーンズであったが、大学を卒業するとロンドンへ出て共同生活を始め、ともに画家を目指した。1856年にはロセッティを慕って、二人で弟子入りすることになり、モリスの将来を大きく左右するラスキンと実際に顔をあわせることになる。

(2)ジェーン・バーデンとの結婚と新居レッドハウス
 1857年にロセッティの提案で「アーサー王の死」をテーマにした壁画を描くプロジェクトが始まり、ロセッティはそのモデルにジェーン・バーデンを採用する。モリスは、モデルとしてジェーンを描くうちに次第に親しくなり、1859年に結婚する。
 自分たちの新居をテムズ河の南ベクスリィヒースに建築すると決めたモリスは、建築家などの友人たちに建物の設計や内装での協力を依頼した。皆で創り上げた新居は「レッドハウス」と呼ばれ、憧れの中世を倣って美しく装飾されたインテリアデザインが評判となる。
 中世のゴシックを模したレッドハウスの建築には1年を要したが、この時の経験が「自分の必要なものを自分自身で工夫して作ることを楽しむのが、理想の生活である」という意識を強くした。それと同時に大気汚染、都市の過密化と生活環境の悪化、農村の過疎化、貧富の格差拡大などから、「現代文明に対する嫌悪感」を強めた。
 モリスにとって、レッドハウスは内装の実験工房となり、自らデザインした内装が評判になったことを機に本格的にデザイン制作活動に入る。これ以降、多才なモリスは、詩人、作家、デザイナー、実業家、翻訳家、カリグラファー、染織工芸家、美術館アドバイサー、園芸家、自然環境保護推進者、古書蒐集しゅうしゅう家、出版発行人、社会主義活動家とマルチ人間と化していく。

(3)モリス商会からアーツ&クラフツ運動へ
 彼は、1861年に「モリス・マーシャル・フォークナー商会」を設立する。設立メンバーには、ロセッティやジョーンズも加わった。中世のギルド制度を模範として、労働の価値と職人の地位を高めることが彼の目的であった。現在で言えばインテリアのデザインと製作を行う会社であり、他にも壁面装飾、彫刻一般、宝石装飾や金工、家具、押し型革細工、刺繍ししゅうや家庭用品など、あらゆる工芸芸術製品を提供した。1862年の第2回ロンドン万国博覧会では、多くの内装や壁紙、布地、家具などの商品販売を手掛けて、ステンドグラスと家具類で二つの金賞を獲得した。しかし、理想を追求する彼の商売のやり方では利益を生み出せず、徐々に共同経営者たちは離れていき、1875年に彼単独で経営する「モリス商会」に改組した。こうして昔の仲間から孤立していくのだが、1877年には古建造物保護協会を設立し、古き良きものを保存するために奮闘する。
 そして、モリスが先導してきた工芸復興運動は、「アーツ&クラフツ運動」に結びついた。この運動の名前は、1887年に設立されたアーツ&クラフツ展覧会協会が、その翌年に開催した「アーツ&クラフツ展」に由来している。工芸品のための最初の展覧会である「アーツ&クラフツ展」が大成功を収めたことを機に、この工芸復興運動は英国だけでなく、ヨーロッパ大陸やアメリカにも広がることになる。この運動の特徴は手仕事の復興であるが、徹底的に機械生産を嫌い手工芸にこだわったために、モリス商会の製品は一部の金持ちしか買えない高価なものとなった。この矛盾に悩んだモリスは社会主義運動にのめり込んでいった。モリスは最後まで理想を追い続けながら、1896年に62歳で永眠する。



オフィーリア  ここまで辿ってみると、ラファエル前派の活動があったからこそ、モリスはラスキンに出逢い、「アーツ&クラフツ運動」を興すことになったことが分かる。また、今回の複雑な人間関係を振り返ると、ラスキンの妻ユーフィミアは彼と離婚後ミレイと結婚し、ロセッティはモリスの妻であり自分のモデルであったジェーンに恋し、ミレイの名画「オフィーリア」のモデルであるエリザベスはロセッティの妻であったということになる。
 ところで画家ミレイの名画「オフィーリア」は本当に印象深い絵画である。私も実際に観た時には、小川に沈む女性の姿がくっきりと脳裏に焼き付いた。シェイクスピアの四大悲劇の一つ『ハムレット』の一場面を題材として「匂い立つ緑と可憐な花々に囲まれ、水に沈んでいく無垢な乙女オフィーリア」を描いた絵は当時も大変な人気を得た。夏目漱石の小説『草枕』の中に「ミレイの描いた、オフィーリアの面影が忽然と出てきて…」という一節があるが、この絵をロンドンで実際に観て強い印象を受けたことから、漱石は絵画的と言われる小説『草枕』の着想を得たのだろうか。
 来月は、実際にモリスが手掛けた壁紙やテキスタイルなどの工芸品を取り上げて、彼のこだわりの部分に焦点を当てたい。

 

AI時代からの考察:「18世紀の英国で産業革命が起きた訳とは」[第14回]~2021年6月号

 英国出身の有名な画家といえば、風景画家のターナー(1775〜1851) と一歳違いのコンスタブル(1776〜1837)が挙げられる。
 美術後進国であった英国では、18世紀初めまでは外国人画家が重用され、かつ人気があったのは肖像画であり、風景画ではなかった。ところが、19世紀に入り英国が産業革命によって絶頂期を迎えると、二人の代表的な英国人風景画家が現れたのである。
 産業革命による社会・環境の変化や価値観の変容などが、美術界にどのような影響を与えたのであろうか。今回は二人の代表的な風景画家の人生を辿りながら考察する。

1.18世紀以降の風景画の位置付け

 18世紀の英国画壇では、歴史画、肖像画、風俗画、風景画という油彩画の格付けは変わらず、風景画の位置付けは依然として低かった。その頃、英国の上流階級はグランドツアー(教養修得のための旅行)の記念として景勝地や歴史的建造物を細かく描写した地誌的風景画を購入していた。特にフランス人でイタリア在住画家のクロード・ロラン(1600年代〜1682)の絵は、古代建築や廃墟など歴史画の主題を融合させた格調高い「理想的風景画」として彼の死後も人気があった。また、ヴェネツィア出身の風景画家カナレット(1697〜1768)は、1746年から9年ほど英国に滞在して、ロンドンの名所を描き、人気が高かった。
 19世紀に入り、英国の工業化・都市化・市民社会化によって国力が充実すると、貴族や地主などの上流階級だけでなく、商人や知的専門業者のような裕福な中流階級も絵画を購入するようになった。彼らの中には鑑賞用というよりも、財力を誇示するために、自分が保有する豪華な屋敷や広大な敷地を風景画に描くように画家へ注文する者もいたらしい。また、オランダで流行した写実的な風景画が英国でも人気が出て、購入されるようになった。

2.「ピクチャレスク」と「サブライム」の流行

 18世紀後半の英国では「ピクチャレスク」と「サブライム」という独特の美学的概念が広まった。「ピクチャレスク」は「絵画的な」を意味する言葉で、著述家ウィリアム・ギルビンが理念化した概念である。一方の「サブライム」は険しいアルプスのように人々を畏怖させる風景を指し、哲学者エドマンド・バークが提唱した。こうした美学的概念が流行すると、想像力を刺激するような廃墟や起伏に富む地形、曲がりくねった古木などの荒々しい風景が人気となった。これまで関心のなかった英国の田園風景が美しいと感じられるようになると、古代ローマ時代からの温泉地であるバースや詩人ワーズワースが賛美した湖水地方などへのピクチャレスク・ツアーがブームとなった。それとともに水彩画が流行する。写真のない時代、旅人は自ら水彩絵具を携帯して、旅行先の風景を描いた。水彩画は油彩画と違って、道具が持ち運び易く、短時間で仕上げられるのが特長だ。もともと地誌的な記録用や油彩画の習作、版画の下絵であった水彩画が、英国では18世紀後半から19世紀前半に上流階級の子女の教養や趣味として広く普及していたことも、その流行を下支えした。
 英国は、18世紀後半からの農地の囲い込み運動によって牧草地や共有地が畑に変わり、都市は石炭によるスモッグで著しく環境が悪化していた。自然に対する郷愁や憧憬に駆られた人々は、風景画の中に自然豊かな自分たちの原風景を求めようとしたのであろう。このように英国の人々のなかに風景画への関心が高まり、自ら趣味で描く水彩画だけでなく、購入対象の油彩画においても人気がでてきた。
 また、ピクチャレスクやサブライムという独特の美学的概念は、18世紀末には感情や個性を重視する英国ロマン主義へとつながっていく。

3.国際的な美術市場の中心地となったロンドン

 18世紀末のフランス革命や19世紀初頭のナポレオン戦争によって、ヨーロッパ大陸の諸国が危険な状態となり、イタリアなどへの渡航を断念せざるを得なくなったことも、英国の風景を見直し英国国内に理想郷を探し求める契機となった。
 また、革命と戦争によって、ヨーロッパ諸国の貴族や富裕層は所有する名画をナポレオンに奪われるのではないかと危惧し、「略奪されるくらいなら外国に売却しよう」と考えた。その結果、英国人画商の仲介により大陸にあった名画が続々と経済大国の英国に持ち込まれた。オークション会社として「サザビーズ」が1744年に、「クリスティーズ」が1766年に設立され、ロンドンはフランス革命後の国際的な美術市場の新しい中心地となり成長する。英国の繁栄到来とともに一躍美術の中心地となるのであった。
 そうした社会の変化の中で、美術後進国であった英国から19世紀後半のフランス印象派に大きな影響をおよぼした二人の画家が現れた。ここからは、ターナーとコンスタブルという二人の風景画家が芸術の国フランスの先駆的存在となった要因を探る。

4.フランス印象派に影響を与えた英国風景画家

(1)ターナーの生涯
 ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーは1775年にロンドンの下町コヴェント・ガーデンの理髪店の長男に生まれた。生活は困窮し、ひどい癇癪かんしゃくもちの母親と父親とのいさかいが絶えず、幸せな家庭とは言えなかった。母親は1804年に精神病院で亡くなるのだが、そのせいなのかターナーは人見知りがひどく、私生活全般について極端な秘密主義であり、孤独で奇行が多かったと言われる。
 画家としては10歳頃から非凡な才能を示した。名所などを忠実に描く地誌画家トマス・マートンに1年ほど弟子入りして水彩画の基礎技術を身につけると、14歳(1789年)の時にロイヤル・アカデミー附属美術学校に授業料免除で入学し、翌年のロイヤル・アカデミー展覧会では水彩画で入選した。油彩画での初出展は22歳(1797年)の時で、24歳にはロイヤル・アカデミーの準会員、27歳には正会員となり、29歳の時に自身の画廊を開き、32歳にはロイヤル・アカデミーの教授となった。
 貧しかったターナーは若い頃から「売れる絵」を描くことに固執していた。20歳代ですでに腕の良い水彩画家だった彼のもとには、貴族や地主から館に飾るための風景画の注文が殺到した。また、彼の美しく的確な構図の絵は、版画の下絵に向いており、当時人気のあった挿絵入り出版物用として多くの注文がきた。
 彼は風景画を描くために、英国国内やヨーロッパ各地を広く旅行している。27歳(1802年)の時にスイスを訪れた際には、アルプスの険しい山並みで激しい吹雪を体験し、自然の力と雄大さに深い感動を覚えた。44歳(1819年)に初めて訪問したイタリアでは、明るい太陽とまぶしい光に満ちたヴェネツィアやフィレンツェの美しさに感動して、約半年の旅行で1500点余りのデッサンを残した。
 イタリア旅行以降は光と色彩のもつ無限の可能性に目覚めて、目に見えにくい光や空気を主題に描くようになった。特に光の描き方に特徴があり、朝陽、夕陽、火事の炎まで、あらゆる種類の光を捉えて作品の中に描き込んだ。色彩による光の表現を追求していたターナーは、1840年に英訳された文豪ゲーテの『色彩論』を読んで参考にした。
 多才なターナーは芸術性の高い風景画を完成するためにさまざまなテーマに挑戦している。手法も緻密で写実的な描き方から粗い筆致のものまで幅が広い。しかし、晩年には目が悪くなったこともあり、モノの形さえも光に溶け込んでしまうような混沌とした抽象的な作風に変化していった。また、若い頃のようにお金や地位に固執しなくなり、人に知られないように偽名を使って貧しい下宿暮らしをしていた。一生独身だった彼は76歳(1851年)の時にコレラが原因で永眠し、遺体はセントポール大聖堂に葬られた。彼の残された作品は遺言により国家に遺贈された。それから20年後に普仏戦争(1870〜1871)の兵役を避けてロンドンに滞在していたフランスの巨匠モネが、ターナーの英国風景画を観て大きく刺激を受けることになる。

(2)コンスタブルの生涯
 ジョン・コンスタブルは、1776年にロンドンの北東にあるサフォーク州イースト・バーゴルトに裕福な製粉業者の6人兄弟の4番目の子として生まれた。7年間ほど家業を継ぐための勉強をしていたので、ロイヤル・アカデミー附属美術学校に入学したのは23歳(1799年)の時とスタートが遅く、ロイヤル・アカデミーの展覧会への初出展は26歳の時である。
 父親からは画家になるなら需要の多い肖像画家を目指すように忠告されたが、純粋で頑固な性格のコンスタブルは聞き入れなかった。長い間、故郷サフォーク周辺の身近な風景を描き続けた。彼は、同じ場所でも同じ風景は二度と目にすることはできないとして、刻々と変化する英国の自然の風景、しかもひたすら身近な風景ばかりを追い続け、人気の名所旧跡や珍しい景観の絵は描かなかった。
 33歳(1809年)の時に幼なじみのマリア・ビックネルと恋におちる。マリアの家族から売れない画家に娘はやれないと反対されたが、1816年にロンドンで挙式し、その後7人の子供を授かった。愛妻家である彼の結婚生活は幸せだったのだが、何の変哲もない田舎の風景画が売れるはずもなく、生活費のために肖像画の注文も若干受けていたようだ。
 また、大気の揺らぎや光のきらめきなど自然の色彩を忠実に表現しようとした彼の手法はタッチが粗いので、絵が未完成のままだとか下手であると思われていた。木々に白く点描した「コンスタブルの雪」と呼ばれる描き方は、後の印象派では技法の一つとなる「筆触分割」の先駆だと言われる。「筆触分割」とは、絵具を混ぜず、細かいタッチを重ねて画面を構成する手法であり、離れて見れば自然に見える。また、18世紀まで木々を茶色で描くのが古めかしくて趣があるとされていたが、コンスタブルは細かく観察し、違いが分かるように丁寧に描いたので、木々の緑が生々しすぎると批判された。
 彼は、「空はすべての絵画の基調」であり、「自然こそ、あらゆる創造力が湧き出る源泉である」と考えていた。デッサンした下絵を参考にして工房でキャンパスに絵を描くのが常識の時代に、徹底的に野外での制作にこだわった。その時代にはまだチューブ式絵具はなかったので、わざわざ豚の膀胱に絵具を詰めたものを持参して油彩画を描いた。また、雲などをスケッチする際には、日付、時間、気象状況、どの位置から描いたかなどを克明に記録するなど科学的な視点をもっており、ロンドンの郊外ハムステッドに滞在した1821年からの2年間で空の習作だけで100点近く描いた。
 1821年にロイヤル・アカデミーの展覧会にサフォークの風景を描いた「干し草の車」を出品した。この出品は英国では話題にならなかったが、この絵を見たフランスの画家ジェリコーが感動し絶賛したのを機に、フランスでの関心が高まった。1824年のパリのサロン展にこの作品他12点が展示されると「干し草の車」は金賞を受賞した。フランスの画家たちはコンスタブルが生み出した粗いタッチによる鮮やかな色彩に驚嘆したのだ。コンスタブルは英国よりフランスで有名となり、パリに招待される。しかし彼は、「外国で金持ちになるよりは、貧乏なままでも英国にいたい」としてパリには行かず、故郷の絵を描き続けた。愛妻マリアに結核の疑いがあったこともパリ行きを諦めた原因と言われる。
 ロイヤル・アカデミーの正会員となるのは1829年53歳の時で、その前年には愛妻のマリアを結核で亡くしていた。「遅すぎた。最早私は独りだ。この喜びを分ちあえる人はもういない」と嘆いたらしい。
 1837年に急に苦痛を訴えると60歳で息を引き取った。子供たちは、売れなかったコンスタブルの大量の絵を手元に大事に保管していたが、1880年後半に最後に残った子供が保管していた絵をすべて国家に寄贈した。彼の絵はロマン派のドラクロアを始めとしてバルビゾン派や印象派の画家にも大きな影響を与えた。

(3)二人の風景画家の比較
 ターナーとコンスタブルを比較する。この二人の生い立ちを見ると、ターナーは貧しい家に生まれ独身のままであったが、コンスタブルは裕福な家に生まれ7人の子供をもつ愛妻家であった。
 絵の制作活動についても対照的だ。才能豊かなターナーは売れるもの、画壇に評価されるものなら何でも描き、さまざまな作風を取り入れた。題材も海や船から、産業革命の象徴である蒸気機関車までと幅広い。嵐や吹雪など激変する自然を主題にすることを好み、燃え盛る炎が作り出す大気を描くために国会議事堂の火事も主題にしている。絵を描くためには、列車の窓を開けて首を突き出し10分近くも外を見たり、暴風で揺れる船のマストに67歳の自分の体をくくりつけて、4時間もの間、海を見続けたりしたらしい。奇人のターナーにとって、自分自身の体験こそが臨場感あふれる作品を生みだす源泉だったのだろう。これに対して、コンスタブルは一貫してなじみの風景を描くことに固執し、画風や題材に著しい変化はなかった。
 活動範囲については、ターナーは湖水地方やウェールズ地方などの国内だけでなく、国外ではヨーロッパ諸国や西インド諸島まで足を延ばす一方で、コンスタブルは産業革命による大都市の変化には目もくれず故郷を中心に国内にとどまり、自分の絵が絶賛されたフランスからの招待も断った。
 作風については、自然の表現に長けていたという点は共通しているが、ターナーは光と色彩の効果的な表現に、コンスタブルは光と大気の忠実な再現に重点を置いた。ロイヤル・アカデミーでの評価は、地味なコンスタブルより、歴史や文学を主題に描いたターナーの方が高かった。
 二人が印象派の先駆けとなることができたのは、美術後進国の英国では自由な作風が許されたからである。美術大国フランスではすでに厳格な伝統的手法のルールが確立されており、新たな作風に挑戦しようという気運は生まれてこなかったのであろう。

(4)展覧会での二人の対決エピソード
自画像  2021年2月から、「コンスタブル展」が東京で開催されており、因縁の二人の作品対決コーナーが話題となっている。コンスタブルの「ウォータールー橋の開通式」とターナーの「ヘレヴーツリュイスから出航するユトレヒトシティ64号」という2枚の絵が1832年開催のロイヤル・アカデミー展を再現して並んで展示されているのだ。コンスタブルの絵は「縦130.8cm、横218cmと大きなサイズ。物語性に富んで、赤などの暖色が中心」であるのに対して、ターナーの絵は「縦91.4cm、横122cmとサイズも控えめ。青などの寒色が中心」である。
 当時ターナーは、展覧会が開催される前に出品した絵の確認に訪れた。そこで彼は、「自分の絵がコンスタブルの絵に迫力負けしている」と感じ、展覧会の壁にかかった自分の絵に、鮮やかな明るい赤の絵具の塊を波間に浮かぶブイの形のように描き込んだ。この赤いブイによってターナーの絵の印象が格段に強くなった。これを見たコンスタブルは「ターナーがやってきて、絵に銃をぶっ放していった」とこぼしたらしい。二人の激しいライバル意識が読み取れるエピソードである。



 産業革命によって引き起こされた社会の変化は風景画の主題にも影響を及ぼした。また、英国で水彩画がブームとなった背景には、18世紀末に石鹸工業の副産物として発見されたグリセリンの存在がある。これを絵の具に添加すると乾燥せず長期保存が可能となり、水彩画の普及に一役買った。これも、産業革命による工業化の産物である。しかし、産業革命による急速な発展や大量生産・大量消費がひずみをもたらすと、新たな芸術改革運動としてラファエロ前派が現れるとともに、産業革命後の社会への批判としてウィリアム・モリスによるアーツ&クラフツ運動が始まるのである。次回はそうした運動の経緯を取り上げる。

 

AI時代からの考察:「18世紀の英国で産業革命が起きた訳とは」[第13回]~2021年5月号

 夏目漱石の生涯を描いた伊集院静氏の小説「ミチクサ先生」が新聞で連載されており、その中に漱石が1900年10月から2年余り英国留学していた場面が出てくる。孤独で鬱陶しい生活を送っていた漱石を虜にしたのが、ロンドン・ナショナル・ギャラリーにあったウィリアム・ターナー(1775〜1851)の絵画であった。漱石はターナーの風景画を見て水墨画をイメージしたらしい。彼がよく通ったロンドン・ナショナル・ギャラリーは13世紀後半から20世紀初頭までの多数の作品を所蔵する人気の美術館だが、実は英国人画家のものは少ない。
 16〜17世紀の英国は、自国の画家が軽視され外国人の画家が好まれる絵画低迷の時代であったのに対して、17世紀のオランダは絵画黄金期を迎えている。この違いを生んだ背景は何であろう。
 今回は、産業革命が始まる18世紀までの歴史的事実を辿りながら、英国とオランダの相違点を比較することで、宗教、政治、商業が絵画に及ぼした影響を考察する。

1.西洋絵画の序列

 英国とオランダの美術史に触れる前に、まず17世紀から19世紀にかけてヨーロッパで確立された「絵画におけるジャンル別の序列」を頭に入れておこう。上から順に歴史画→肖像画→風俗画→風景画→静物画である。
 最上位の「歴史画」は、古代史、旧・新約聖書、ギリシア・ローマ神話などの古典文学、寓話などをテーマに描いた絵画であり、宮殿や教会などに飾られたので大型作品が多かった。歴史画には絵のテーマに関するさまざまな知識が不可欠なので、画家も鑑賞者も教養と品格が求められた。
 2番目の「肖像画」は、王侯貴族や宗教関係者などの地位の高い人の肖像が中心だ。画家は題材となる人物そっくりに描くのではなく、依頼主がどのように自分を見せたいかを汲み取って描いている。
 3番目の「風俗画」は庶民を中心に人々の日常生活の一場面を描いたもので、歴史画に比してサイズも小型の作品が多い。
 4番目の「風景画」は、自然の風景、都市景観を描いた。画家にとって風景画を描くのは、歴史画の背景を描く練習になった。
 そして最下位の「静物画」は、花、果物、道具など身の回りにある動かないモノを正確に写して描くだけなので、大した知識も必要でなく最下位となったらしい。
 絵画の序列は画家の格付と連動し、最上位の歴史画を描く画家の評価が高くなった。たとえばイタリアでは、14世紀頃までは、画家や彫刻家は大工や金細工師と同じく職人という位置づけだったが、16世紀のルネサンス全盛期では、歴史画を描くラファエロ、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロの三大巨匠が登場し、彼らの作品は芸術品と見做みなされた。聖書や神話の知識が必要となる歴史画家は職人より崇高で知的な仕事と認められ、社会的地位が上がったのである。
 一方、美術後進国の英国では、自国の画家は職人という地位に留まったままであった。

2.英国の絵画史

(1)英国における宗教改革による影響
 歴代の英国王の中でも、インテリでかつ無慈悲な専制君主として名高いヘンリー8世(在位1509〜1547)は、ローマ・カトリックと絶縁して1534年に英国国教会を樹立している。独善的な国王は男子の世継ぎが欲しくて最初の王妃であるキャサリン・オヴ・アラゴンと離婚しようとしたが、ローマ・カトリックでは離婚が禁じられており、ローマ教皇の認可が得られなかった。そこで国王は首長令を発布して自ら英国国教会の首長となることで、離婚を可能としたのである。また、カトリックの修道院に解散を命じて修道院の土地や財産を没収し国有化したので、カトリック教会の勢力は一挙に弱まった。これを機に国内でプロテスタント信者が力をもつようになると、宗教画や宗教彫刻の制作を禁ずる「イコノクラスム(聖像破壊運動)」が各地で過激化し、英国における中世の豊かな文化遺産の多くが失われてしまった。
 布教活動に絵画を積極的に活用していたカトリック教会の力が弱まると、画家たちは教会という中世以来の最大のパトロンを失った。王侯貴族からの肖像画の需要は残るのだが外国人画家が好まれたので、英国人画家の大半は廃業するか国外に働き口を求めざるを得なくなり、英国美術は一層影が薄くなった。ヘンリー8世も絵画に関しては外国人の画家を重用し、特にドイツ人のハンス・ホルバイン(1497〜1543)に惚れ込んだ。ホルバインは、ヘンリー8世自身の肖像画だけでなく、宮廷関係者たちの肖像画を多数制作するとともに、細密肖像画の制作にも乗り出し、英国での細密肖像画を発達させた。
 ヘンリー8世の次に即位した息子のエドワード6世(在位1547〜1553)が夭折ようせつした後に、メアリー1世(在位1553〜1558)が即位した。彼女は敬虔なカトリック信者であり、英国の国教を強引にローマ・カトリックに戻すとともに、これに反対するプロテスタント信者を容赦なく徹底的に弾圧した。これによって英国でのカトリックとプロテスタントの勢力争いはさらに激化した。

(2)英国ルネサンスにおける絵画の位置付け
 メアリー1世は即位5年後に卵巣がんで死去し後継ぎとなる子供がいなかった。次に即位したエリザベス1世(在位1558〜1603)はプロテスタント信者であったが、カトリック信者を弾圧せず、カトリックとプロテスタントのバランスを保持して英国国教会の基礎を固めた。生涯独身を通したエリザベス1世のもとで第1次黄金期を迎えた英国は、演劇を中心とする英国ルネサンスを迎えた。芝居好きのエリザベス1世がパトロンとなって演劇を支援したからである。この時期の演劇を代表するのが「ハムレット」などで有名な劇作家ウィリアム・シェイクスピア(1564~1616)である。
 絵画に関しては、自分の肖像画をフランドルなど外国出身の画家に数多く描かせているが、あくまで女王の威光を示すためであり、女王自身はあまり絵画への興味がなかったようだ。
 16世紀後半に英国出身の有名な画家が初めて現れた。イングランド生まれの画家ニコラス・ヒリアード(1547〜1619)であるが、専門としたのは直径数センチの子牛の皮を加工した円形の生地面に水彩でモデルの胸像を描く細密肖像画である。ヒリアードは、宮廷画家ホルバインを引き継いで宮廷の細密肖像画家となったのであるが、画家としての格付けは低かった。細密肖像画の制作は、もともと手先の器用な職人が小遣い稼ぎでやる副業だったからである。完成した細密肖像画は、女王や廷臣たちが豪華な宝飾品として身につけて楽しんだり、宝石細工の箱に入れられて大切に保管されたりした。

(3)17世紀英国の宮廷画家は外国人
 エリザベス1世の次に即位したジェームズ1世(在位1603〜1625)も絵画には関心が薄かった。しかし、その息子のチャールズ1世(在位1625〜1649)は歴代英国王の中でも最も熱心な美術愛好家であり、ドイツ人画家ルーベンスに父ジェームズ1世を讃える豪華な天井画を注文している。1632年にはフランドル出身の画家ヴァン・ダイク(1599〜1641)を宮廷画家として英国に招聘し、騎士の称号を与えた。引き続き、英国では外国人画家だけが優遇され、英国人画家の地位は低いままであった。その後、議会と対立したチャールズ1世はオリバー・クロムウェルを指導者とするピューリタン革命によって1649年に処刑されるが、1660年にフランスに亡命していたチャールズ2世(在位1660〜1685)が王政復古を成し遂げる。チャールズ2世は宮廷画家としてオランダのピーター・レリー(1618〜1680)や北ドイツ出身のゴドフリー・ネラー(1646〜1723)を重用した。特にネラーはハノーヴァー朝のジョージ1世(在位1714〜1727)の時代まで長く重用された。

(4)グランドツアーと外国人画家への贔屓ひいき
 王侯貴族たちが外国人画家の絵画を好んだのには、17世紀初めに始まったグランドツアーの影響が強いと思われる。裕福な貴族の子弟は国内の学業が終了すると、文化が進んだイタリアやフランスへ贅沢な短期留学(グランドツアー)をして、美術の勉強だけでなく、現地で絵画を購入していた。
 18世紀になるとグランドツアーでイタリアを訪れた英国貴族の間で、ローマ在住のフランス人画家クロード・ロラン(1600頃〜1682)やカナレット(1697〜1768)の風景画が大変人気となり、購入された多くの作品が英国に渡った。理想郷的なロランの絵はターナーを始めとする英国人風景画家に影響を与えた。写実的に都市を描いたカナレットの風景画はイタリア旅行の思い出として求められ、特にジョージ3世(在位1760〜1820)はカナレットのコレクターとして膨大な数の絵画を残した。

(5)18世紀からの英国人画家の台頭
 1760年代は、英国で蒸気機関の発明などによる産業革命がスタートした時代であり、富裕な産業資本家たちが現れてきた時代でもある。
 その頃から、ようやく英国人画家たちが台頭してくる。まずは英国近代絵画の創始者とも称されるウィリアム・ホガース(1697〜1764)である。画家、版画家、モラリストでもあったホガースは当時の政治闘争や芸術闘争に積極的に参加し、人々の社会道徳的な逸脱を嘲りの題材とした連作風俗画や「カンヴァセーション・ピース」と呼ばれる家族や友人などの集団肖像画を手掛けた。ホガースのドラマ的な連作版画は、道徳を揶揄するだけでなく、滑稽さやエロティシズムも満載であったので、大当たりした。また、カンヴァセーション・ピースは、従来の肖像画より小さいサイズであり、富の象徴である豪華な館内の様子も描かれたので、植民地貿易や産業革命によって台頭してきた裕福な中産階級の間で人気を博した。
 一方、上流階級の人々を描いた代表的画家として、ジョシュア・レイノルズ(1723〜1792)とトマス・ゲインズバラ(1727〜1788)がいる。歴史画こそ絵画の頂点と考えるレイノルズはルネサンスの巨匠に倣って歴史画と肖像画を融合させ、モデルを理想化して描いた。風景画を得意とするゲインズバラは、モデル、衣装、風景の3つの要素を調和させた形式張らない新境地を拓いた。

(6)英国ロイヤル・アカデミーの創設
 美術先進国であるフランスでは、ルイ14世のもとで王立絵画彫刻アカデミーが1648年に創設されていた。英国でもようやく自国の画家が力をつけてくると、優れた芸術家の育成と供給を目的に国王ジョージ3世の許可を得て、英国人画家の悲願であった英国ロイヤル・アカデミーが1768年に創設された。
 外国人画家に頼らず英国人画家を養成して、画家の社会的地位を上げ、美術鑑賞を国民に啓蒙することを目的に、当初は正会員40名、準会員20名で構成された。初代院長はジョシュア・レイノルズであり、夏目漱石が愛したターナーやジョン・コンスタブル(1776〜1837)らが正会員となった。

3.オランダの絵画史

(1)17世紀のオランダにおける絵画黄金期
 次に、英国と同様に宗教改革の影響をうけたオランダの絵画史を辿る。
 15世紀にネーデルランド(現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルク)やドイツなどアルプス以北のヨーロッパで芸術が栄えた。15〜16世紀のネーデルランドは、経済的、政治的、文化的にも重要な場所であり、交易や毛織物を中心に商工業が栄えていた。絵画の輸出もあったようであり、当時の画家の巨匠にはピーテル・ブリューゲル父(1525頃〜1569)がいる。
 16世紀の後半には、英国と同様にプロテスタントが多いオランダでもルターやカルヴァンなどの宗教改革によって宗教画や宗教彫刻が否定された。画家たちは大口発注者である教会からの注文が一気に消えてしまったので、新しい顧客層が必要となった。17世紀のオランダで強い発言権を持っていたのは、貴族や教会ではなく、貿易で活躍する商人を中心とした市民階級であった。市民階級の人々は、難解で重厚な歴史画ではなく、自分の家や職場に飾れる絵として集団肖像画や家庭肖像画、風俗画などを求めたので、画家たちは親しみやすい風俗画や風景画など幅広いテーマで絵画を描くようになった。また一般家庭で飾りやすいように比較的小さいサイズの絵画が人気となった。ちなみに有名なヨハネス・フェルメール(1632〜1675)の「レースを編む女」は縦24.5cm、横21cmとA4サイズに収まるくらいに小さい。

(2)オランダにおける絵画バブル
 こうして、17世紀のオランダは絵画黄金時代と呼ばれ、風俗画、風景画、静物画が発展するのだが、絵画の人気が出てくると、美術品というよりは市場価値をもった商品となっていく。生産性を上げるために、画家たちは従来の時間と手間のかかる技法をやめて、主に中間色を用いる技法に換え、1日に1点の速さで絵画を完成するようになった。当時のオランダは画家の数が多かったので、各専門分野の画家たちが一枚の絵を手分けして描けるように工房での工程を分業化し、さらに生産性を上げた。17世紀中ごろの画家一人当たりの年間平均作品数は90点余りだったと言われる。
 絵画の購入の仕方も発注者が直接画家の工房に来て注文するのでなく、画商やオークションのようなマーケットを通して購入できるようになったようだ。このように絵画が市場に大量に出回るようになると質の悪い絵画もでてきたが、絵画売買は裕福になった市民階級の投機の対象として熱気を帯びて、バブル状態となった。
 しかし、17世紀後半にオランダの経済が衰退し、富裕な購入層が減少すると、同時期に投機対象となっていたチューリップの球根と絵画のバブルは崩壊した。17世紀末にはオランダの画家の数は激減して絵画市場は衰退していく。

4.英国とオランダの相違点とは

細密肖像画  英国とオランダでは16世紀の宗教改革による聖像破壊運動が同時期に起きたが、その後の17世紀において英国は絵画低迷期となり、それとは対照的にオランダは絵画黄金期となった。
 英国の産業革命以前は絵画購入者となる層は王侯貴族しか存在せず絵画への需要が少なかった。しかも王侯貴族は外国人画家を重用していたので、自国の画家は育たない美術後進国であった。
 オランダでは裕福な市民階級層が新たな絵画の購入者となったが、絵画は鑑賞だけでなく投機のための商品となり、バブルに陥った。プロテスタント信者の多いオランダでは、地味なファッションや質素な食事が好まれ、節制がモットーとされていた。では、なぜ投機に夢中になったのだろうか。17世紀のオランダ繁栄の原動力となった商人たちの価値観が、「絵画は商売と同様に儲けるための商品」だったからであろう。そうした風潮に影響されて、オランダの画家たちも、工業製品のように生産性を向上して儲けを増やすことに注力した。
 一方、王政の続く英国の王侯貴族たちには、絵画の値上がりを話題にするのは下品なことであり、絵画を投機対象とは見ていなかったのである。



 産業革命は19世紀に英国の全盛期をもたらしただけでなく、絵画の世界にも影響を与えることになる。次回は、19世紀前半に活躍したウィリアム・ターナー、ジョン・コンスタブル、そして、19世紀半ばに人気のあったラファエロ前派のダンテ・ゲイブリエル・ロセッティやジョン・エヴァレット・ミレイなどを取り上げ、絵画に及ぼした影響を探りたい。

 

AI時代からの考察:「18世紀の英国で産業革命が起きた訳とは」[第12回]~2021年3・4合併号

 フィッシュ&チップスは英国名物である。
 第9回に引用した林望氏の随筆『イギリスはおいしい』の中でも「英国中どこに行ってもあるものは、フィッシュ&チップスの店と中華料理店であり、英国の庶民が最も親しみを感じる食べ物はフィッシュ&チップス」と書かれている。
 今回はこの英国名物がどのように産業革命と関係するかを考察する。まずフィッシュ&チップス、そして魚食、ジャガイモと各々の歴史を辿る。

1.フィッシュ&チップスとは

(1)英国人のソウルフード
 フィッシュ&チップスは名前の通り、タラなどの白身魚の揚げ物(フライド・フィッシュ)とジャガイモのフライを一緒に盛った極めて単純な元祖テイクアウト料理である。起源には諸説あるらしいが、1860年に東欧からのユダヤ人移民ジョセフ・マリンがロンドンの下町イーストエンドで開業した店が世界最古のフィッシュ&チップスの店だと言われている。その後、英国の工業化とともに庶民の外食として親しまれるようになった。
 1910年頃の英国には約2万5千店のフィッシュ&チップスの店があり、ピーク時の1927年には約3万5千店となった。その後、食の多様化や地域コミュニティの崩壊で家族経営の店が減少したが、現在でも1万程度の店舗は残っているようだ。今でも週に1~2回はフィッシュ&チップスを食べているそうだから、英国民にとってはまさに変わらぬソウルフードである。

(2)作り方と食べ方
 フライにする魚は基本的に白身魚であり、タラやカレイ、オヒョウなどが原料に使用される。地域によってはウナギやエビ、ロブスターなども使われるようだ。魚に付ける衣は小麦粉を卵や水で溶いたもので、生地に色合いを付けるために少量の重曹や酢を加えるのが伝統的である。そして生地に苦みやサクッとした食感を加えるためにビールを入れるのがポイントらしい。衣のかけら(日本でいう天かす)はスクラップスと呼ばれて無料で客に提供される。付け合わせのチップスはフライド・ポテトのことで、アメリカのものと比べて太い。揚げ油は伝統的にヘット(牛脂)やラード(豚脂)を使用しているが、現在では健康志向で植物油が主流である。
 原則、立ち食いである。注文すると新聞紙やわら半紙2~3枚をメガホンのような形に巻き付けて、そこへまず揚げた魚を放りこむ。次にシャベルのような道具でたくさんのチップスをすくって、揚げた魚の上に放り込む。さらに、茶色いモルト・ヴィネガー(醸造酢)をたっぷりと掛け、その上に塩を振り味付けをする。あとは客がメガホン形のわら半紙の根元の部分をしっかり握って、道端などで頬張る。食べていると、わら半紙に油と酢が徐々に染み出して手がベタベタになるので、油が浸みていない紙の部分で指先と口の周りを拭い、最後に残ったわら半紙をクシャッと丸めて捨てるのが正しい食べ方のようだ。

2.魚食の歴史

(1)ユダヤ人とフィッシュ・デイ(魚の日)
 ユダヤ人は、かなり古い時代から、金曜日の夕食に魚料理を食べて安息日の始まりを祝ってきた。フライド・フィッシュは16世紀頃にスペイン系ユダヤ人移民が英国に持ち込んだ魚の揚げ物(ペスカド・フリット)が起源という説などから、ユダヤ移民から伝わった食べ物とされている。ユダヤ人にとっての最も一般的な魚料理は冷えたフライド・フィッシュらしい。こうしたことから、フライド・フィッシュと言えば当初ユダヤの料理とされていた。19世紀のヴィクトリア朝時代には、フライド・フィッシュの店から漂う独特の臭いがユダヤ人差別の象徴ともなっていたが、「ユダヤ人が聡明なのは彼らが食べる大量の魚のおかげである」と考える著述家もいた。
 一方、ローマカトリック教では、断食日に肉を食べることは禁じられていたが、魚は対象外として食べることが許されていた。中世のカトリック教会では1年の半分近くが断食日だったので、かなりの頻度で魚を食べていたことになる。特に、キリストの磔刑の忌日として断食日である金曜日は、「フィッシュ・デイ」と呼ばれ、積極的に魚を食べたようである。

(2)漁業と魚の保存
 魚は保存が難しい。古代ギリシア・ローマ時代の保存には専ら塩が用いられた。また「魚を油で揚げてから月桂樹の葉、塩、香辛料をまぶし、それから煮立たたせた酢を上から注ぐ」という保存方法も用いられた。11世紀のノルマン・コンクエストの頃には漁業で漁網が一般的に使用されるようになり、海でのニシン漁が盛んとなった。しかし、塩などを用いて生魚を保存する作業が大変だったので、ニシンなどの海水魚は海岸近辺の住民しか食べることはできず、12世紀の英国では川で獲ったウナギなどの淡水魚が一般的に食べられていたようだ。ちなみに貴族や修道院は敷地内に生け簀をもっており、淡水魚などを生きたまま蓄えていたらしい。
 16~17世紀初頭には新世界の発見とともに北大西洋に新たな漁場が開発されたことで、安価なタラが簡単に手に入るようになり、プリマスなどイングランド南西部の港町がタラ漁の基地として栄えた。その頃には、課題であった魚の保存方法も向上していたと思われる。特に、塩を使って日干しした塩ダラは5年近く保存がきき、赤道を越えても腐らない数少ない食品のひとつとなったので、新大陸への長期間の航海中における貴重なたんぱく質として必需品となった。
 19世紀には漁業の進歩で延縄漁や蒸気船の大型トロール漁業(底引き網)が利用されるようになり、漁獲量が大きく増加した。英国の人口が増加する中で生魚の供給量が増加したうえに値段も下がったので、魚の消費量は増加した。リバプールでは、1843年に3軒しかなかった魚屋が、1867年には50軒に増加した。大量に獲れるようになった魚は、安価で栄養豊富な労働者向けの食材となったのである。
 また、19世紀前半には、魚を保存するための氷の需要が増加した。運河を利用して国内から天然の氷を集めただけでなく、ノルウェーやアメリカからも輸入し、港には氷用の倉庫も建設された。そして、1834年にアメリカ人発明家ジェイコブ・パーキンスが最初の冷蔵庫を作り、1880年代後半には機械製氷や機械冷蔵の技術が実用化されたことで、1890年代には機械で製造された氷が漁船内で魚の保存に使えるようになり、さらに遠く離れた場所に漁へ出られるようになったのだ。
 産業革命期の技術進歩がもたらした蒸気船の登場と鉄道網の整備、保存方法の発達によって大都市を抱える内陸まで、新鮮な状態で大量かつ短時間で魚を運べるようになり、従来は港町でしか食べられなかった生魚が都市部でも簡単に食べられるようになった。19世紀後半には、フィッシュ&チップスの原材料となる鮮度の良い生魚が、どこでも手に入るようになったのである。

(3)産業革命を支えたフィッシュ&チップス
 フライド・フィッシュとポテトチップスは元々別に販売されていた。誰が魚のフライとポテトチップスを組み合わせたかは不明だが、1870年代以降になると、労働者階級は路上やパブ、定期市でフィッシュ&チップスを買うようになり、それを売るための専門店も増えてきた。安価ですぐに食べられて、更に腹持ちが良く栄養満点であるというフィッシュ&チップスの商品性が、労働者にうまくマッチして人気となったのだ。そして、フィッシュ&チップスが庶民の外食産業として普及するにつれて、次第にフィッシュ&チップスは「ユダヤ人ゆかりの食べ物」というイメージから「労働者の食べ物」に変わっていった。産業革命によって都市で急増した労働者の食生活を支えたのが、「安い・速い・高カロリー」のフィッシュ&チップスなのである。

3.ジャガイモの歴史

(1)起源と栄養豊富な野菜
 ジャガイモ発祥の地は南米アンデス山脈のほぼ中央部、標高3812メートルに位置するティティカカ湖のほとりの高原地帯だ。現地では今でもジャガイモが盛んに栽培され、乾燥芋「チューニョ」を作っている。「チューニョ」はジャガイモの有毒成分であるアルカロイド物質のソラニンを毒抜きして、長期保存を可能にしたものである。アンデスの4000メートル級の高地で生まれたジャガイモは、北ヨーロッパの寒冷地でも問題なく豊かな収穫をもたらした。また、地下茎の先端に肥大したイモを形成するので、鳥などに食い荒らされることもなかった。『国富論』のアダム・スミスも「同じ面積の耕地で、ジャガイモは小麦の3倍の生産量がある」と高く評価した。でんぷん質、無機質、ビタミンCが豊富で、寒冷地では「冬の野菜」として重要な役割を担っている。しかも、品種改良されたジャガイモは年に数回の収穫も可能となり、今では麦、米、トウモロコシと並ぶ四大作物だ。赤道直下から北極圏まで栽培されているのはジャガイモだけらしい。
 スペインの冒険家が1530年代に初めてジャガイモと出会い、遅くとも1580年代にはスペインに持ち帰った。1600年頃にヨーロッパに伝わったが、食料としては人気がなく、当初はソラニンという毒をもつことから「悪魔の植物」とも呼ばれた。17世紀にはジャガイモを食べると「腹にガスがたまる」とか「ハンセン病になる」などの偏見があり、農民の多くがジャガイモに恐怖を抱いていた。

(2)アイルランドの「貧者のパン」
 17世紀、ジャガイモを最初に欧州の食生活へ取り入れたのがアイルランド人である。ジャガイモはアイルランドの痩せた土壌、厳しい気候や生活条件にも適応した。ジャガイモの栽培によって、食生活は安定し、1780年に約400万人であった人口が1841年には倍の約800万人となった。
 16世紀にヘンリー8世によって英国国教会が成立した以降、カトリック教徒の多いアイルランドは、英国からの厳しい圧政を被っていた。特に1649年の清教徒オリバー・クロムウエル(1599~1658)によるアイルランド侵略によってアイルランド人の土地の4割が奪われて、英国にとって安価な食糧と原材料を供給する植民地と化した。英国はアイルランドのカトリック教徒を弾圧するとともに、カトリック教会の農地や資産を没収し、元の土地保有者である農民を英国人地主の小作に転落させた。小作人となったアイルランドの農民は農地の三分の二に小麦を植え、その収穫のほぼすべてを地主に収めなければならなかった。そして、残った三分の一の劣悪な農地で、地代が徴収されないジャガイモを育て、なんとか生き延びることができた。岩盤だらけのアイルランドの農地でもジャガイモは「貧者のパン」として役割を果たし、アイルランド人を救ったのである。

(3)ジャガイモ飢饉と反英感情
 しかし、1845年に「ジャガイモ飢饉」が襲う。アメリカ起源のジャガイモの病気は、まず1845年7月にベルギーで報告され、8月にはパリやドイツの西部、そしてアイルランドにも上陸する。当時アイルランドで栽培していたランパー種はこの病気に弱く、この年の被害は栽培全体の4割におよぶ大凶作となり大飢饉を引き起こした。特にアイルランドは農作物の栽培をジャガイモに集中していただけに被害が大きかった。ヨーロッパのほかの国々では、ほかの作物で補い飢饉を回避している。一方、英国はアイルランドの飢饉が最も深刻なときでさえ、税として農作物を納めさせたため、別名「英国が作った飢饉」とも呼ばれた。800万人までに増加していたアイルランドの人口が1851年には約655万人と激減した。減少したうちの100万人は移民として国を脱出した。こうした移民の子孫から誕生したのが米国大統領となったJ・F・ケネディやロナルド・レーガンである。
 また、その頃の英国は産業革命による高い生産性と規模の大きさで、小規模なアイルランド産業を圧倒していた。汽船や鉄道の発達によって、アイルランドの生産者や卸売業者は苦境に陥っていたのだ。この時の英国政府のアイルランドに対する対応のまずさが、深刻で永続的な反英感情を後々まで残した。

(4)英国でのジャガイモの普及
 英国ではジャガイモが広く受け入れられるまで時間を要したが、18世後半には一挙に庶民の食生活に入り込んだ。1793年に長雨と霧によってかつてない小麦の凶作に見舞われた際に、英国の首相ピットはジャガイモの効用を説いて、その栽培に対して助成金を出すなど奨励策に踏み切ったのだ。1790年代から1815年のナポレオン戦争終結までに続いた小麦などの凶作もあってジャガイモは定着し始め、19世紀前半に消費量が徐々に増加し、英国の都市や農村の労働者の家庭の食べ物として次第に食卓に上るようになった。
 世界最古のフィッシュ&チップスの店ができた19世紀後半のロンドンの街頭では、皮つきのままでジャガイモを焼いた「ベイクド・ポテト」を売る店も多く登場した。ジャガイモの皮をジャケットに見立てて「ジャケット・ポテト」とも呼ばれた。
 このように、ジャガイモは19世紀末には小麦パンに匹敵する普通の食料の一つとなり、労働者階級の食生活に欠かせぬものとなった。

(5)フライド・ポテトの発祥地
フライド・ポテト  英国のフライド・ポテトはフランスから伝わったという話もあるが、拍子木型に切ったジャガイモを揚げたフライド・ポテトそのものの発祥地については、ベルギー説とフランス説がある。ベルギー説ではベルギーのフランス語圏ナミュールの住民が17世紀に町の中心を流れるムーズ河が凍って魚が取れなくなった際に、小魚のようにジャガイモをカットしてフライにして食べたということが発祥だとして、ベルギーはユネスコの無形文化遺産に登録申請しようとした。一方、根拠となる資料は乏しいようだが、フランス説では「18世紀後半にパリのポンヌフ橋で路上販売されていた」とし、フランス側はベルギー説を作り話だと主張している。ベルギーにジャガイモ栽培が広まったのは18世紀半ば以降であり、17世紀のナミュールをフライド・ポテトの発祥地とするのは時代考証的に矛盾があるからだ。
 私は若い頃ベルギーの銀行のナミュール支店に1カ月間の研修経験があり、その時にベルギー人から何度もフライド・ポテトの自慢をされた。実際、毎日のように食べていたフライド・ポテトは美味しくて病みつきになった。動物性油脂で二度揚げたフライド・ポテトは絶品だったので、是非ベルギー説に軍配を上げてもらいたい。



 国際連合食糧農業機関の統計(2015年)によると国民一人当たりの年間ジャガイモ消費量は、英国が86kgで日本が18kgと4倍以上の差がある。
 また、平均的なフィッシュ&チップスの重量は343.2gでカロリーは529kcalらしい。マクドナルドの「倍フィレオ・フィッシュ」とフライド・ポテト(M)は重量330g、カロリー844kcalなので、これと比較するとかなり低カロリーである(フライド・ポテト(M)は135gで410kcalもある)。
 産業革命がフィッシュ&チップスの普及に一役買うまでの経緯を調べて、一見無関係な発明や技術の進歩が、日常生活の中の当たり前なことに大きな影響を与えたのだと改めて認識した。現在のコロナ禍で生まれた新しい生活様式や技術・製品によって、今まで当たり前であった物事が数年後にはすっかり変わっているかもしれない。
 次回は、産業革命期の芸術について、どのような動きがあったのか辿りたい。
(メイン具材のフライド・フィッシュが2枚入ったメニュー)

 

AI時代からの考察:「18世紀の英国で産業革命が起きた訳とは」[第11回]~2021年2月号

礼儀作法  テーブルマナーには英国式とフランス式がある。スープを飲むときに音を立てないのは共通しているが、スプーンのすくい方は逆である。「英国式スープの飲み方」は皿の手前から向こう側に向けてスプーンを動かしてスープをすくい、スプーンの向きはそのままで、スプーンの横側に口をつけてスープを流し込むように飲む。スープの残りが少なくなると皿の手前を持ち上げてスープをすくう。一方、「フランス式スープの飲み方」は反対に皿の奥から手前にすくい、スープをすくった後のスプーンの先端を口に向くようにして近づけ、口に少しだけ入れてからスープを流し込むように飲む。スープの残りが少なくなると皿の奥を持ち上げてスープをすくう。それぞれ作法の根拠はあるようで、英国式では「相手に皿の裏側が見えるのは失礼」と考え、フランス式では「相手にスープがはねたら申し訳ない」と考えたそうだ。
 英国式礼儀作法が確立されたのは、英国産業革命によって大英帝国となったヴィクトリア朝時代以降だと言われる。今回は、まず世界の食事スタイルを見て、英国が模倣した美食の国フランスにおける礼儀作法の歴史をカトラリーの普及から辿たどる。それから英国の礼儀作法が確立されるまでの経緯をエリザベス1世の時代、イタリア・フランスへの留学「グランドツアー」、そして繁栄したヴィクトリア朝時代までを辿る。最後に「ジェントルマン」を中心として、産業革命後に生じた階級概念の変化が英国におよぼした影響を考察する。

1.世界の食事スタイルの主流は手食

 世界の食事スタイルは約4割が手食、約3割がはし食、残り3割がナイフ・フォークだそうだ。手食とは文字通り直接手でものを食べることだが、手づかみで食べるのは野蛮、不衛生といったイメージで捉えがちである。しかし、手食文化では食器や食具の方が汚れたものであり、よく洗った手の方がよほど清潔だと考えられていた。手食の頃のユダヤ教徒は昔からの言い伝えで「食前と食後に必ず手を洗うこと」を厳格に守っていた。中東のイスラム教徒やインドのヒンズー教徒は右手が聖なる清浄な手であり、親指、人差し指、中指の3本の指で食べる。ヨーロッパでも近世までは手食が主流であり、キリスト教でも「指は神様から与えられた優れた道具である」とか「食べ物は神様からの授かり物なのだから、手で食べるのが正当」と教えられていた。古代ローマや中世のヨーロッパでは、上流階級は食べ物を片手で取り、親指、人差し指、中指の3本だけを使って食べ、薬指と小指はスパイスや塩をつけるために利用していた。一般庶民と同様に5本指全部を使って食事をするのは、下品だと考えられていたのだ。手食の良いところは口に入れる前に指先でも味わって楽しめることだろう。日本人にとっても、おにぎりや寿司は手で食べた方が美味しい。
 日本は箸文化の国であり、かなり昔から箸を使っていたようだ。平安時代まではさじも使用していたらしいが、室町時代に使われなくなった。箸文化の他の国では箸と匙が必ずセットであり、箸のみで食事するのは手先の器用な日本人だけだそうだ。匙を使わないためか、お椀を持ってすするようになった。しかも直接お椀に口をつけてすすると、どうしても熱い汁気のものを冷ますために空気とともに吸い込むことになり「ズズズ…」と音が生じることになる。ちなみに猫舌といわれる英仏の国ではスープを直接口に流し込んでも火傷しないような温度に冷まして出てくるので、熱々の汁物が好きな日本人には物足りないことが多い。

2.美食の国フランスにおける礼儀作法の歴史

(1)カテリーナ・デ・メディチが嫁ぐまで
 ここからは、まずカトラリーを中心としてフランスの礼儀作法を辿る。洋食で用いる金属製ナイフ、フォーク、スプーン類を総称してカトラリーと呼ぶが、各々に歴史がある。
 カトラリーの中で最も早く食卓に登場したのはナイフである。12世紀頃には食事に招いた主人が大きな肉を切り分けるために、肉切りナイフが1本だけテーブルの上に置かれた。15世紀頃からは各自が自用のナイフを持参するようになった。
 スプーンといえば15世紀になるまでは、熱い汁をすくったり、煮え切った鍋から肉を取り出したりするために使われるお玉のような調理用道具しかなかった。15世紀以降に現在のように食事に使われるようなスプーンが現れたのである。
 フォークは、11世紀頃イタリアのベネチアに嫁いだビザンチン帝国の王女が祝宴でフォークを取り出して食べたのが始まりと言われているが、17世紀までなかなか普及しなかった。

(2)カテリーナ・デ・メディチの登場
 食通の国フランスも16世紀になるまでは食事のテーブルマナーは洗練されてはいなかった。
 フランスのテーブルマナーを改善したのは、1533年にフィレンツェのメディチ家からオルレアン公(のちのアンリ2世)に嫁いだカテリーナであった。当時のフランスは、イタリアに比べるとかなり野蛮な食事風景だったらしい。最も文化的に進んだ国イタリアから来たカテリーナの眼には、フランスの宮廷人が全くの田舎者に映った。そこで彼女は宮廷のテーブルマナーを改善するために、お抱えの料理長にカトラリーの使い方などの作法書をまとめさせたと言われる。彼女はイタリアの香水やリキュール、シャーベット、パラソルなどと一緒にフォークも宮廷に持ち込み、肉類を手ではなくフォークで食べる作法を宮廷で広めようとした。しかし、当時のフォークは二股で使いづらかったので、なかなか定着しなかった。本格的に普及したのは17世紀に入り、三股や四股の扱い易いフォークが登場した以降のことだ。ようやくフォークはナイフ・スプーンとともに食事に欠かせぬカトラリーとなった。

(3)ルイ14世が確立したフランス式礼儀作法
 ヨーロッパの作法の中心がイタリアからフランスへ移ったのはルイ14世(在位1643~1715)が政治の実権を握った頃だ。彼は太陽王として72年間もの長い間王位に就いて、ヴェルサイユ宮殿などの大建造物をつくり、華美な環境で文学、美術を保護するとともに、貴族たちをヴェルサイユ宮殿に集めて、礼儀作法を徹底的に守らせた。儀式を通じて国内外にルイ14世の威厳を示し、国王崇拝を維持させようとしたのだ。固定化された階級社会である絶対王政の最盛期に、儀式が大好きなルイ14世は自ら政策や個人的好みを基にフランス式礼儀作法をしっかりと確立したのであった。
 しかし18世紀後半になると、絶対王政が弱体化した。ルイ16世(在位1774~1792)が王妃マリー・アントワネットとともに1789年に起きたフランス革命の下でギロチンによって処刑され、ブルボン王朝が一旦途絶えた。同時に、それまでの宮廷的なフランスの礼儀作法も消え去ることになった。革命後のフランスでは、宮廷人や貴族に代わってブルジョア階級が新しい社会の担い手となり、政治や文化の中心もヴェルサイユからパリに移った。その後に皇帝ナポレオンが登場するが、当時のフランスではブルジョア階級など新興勢力が上流階級の中心となっていたため、礼儀作法もおのずと粗野なものとなった。

3.英国式礼儀作法が確立されるまで

(1)エリザベス1世治世から裕福な英国に
 ヴィクトリア朝の全盛期となるまで、英国はフランス式礼儀作法をほぼ模倣していたと思われる。
 エッセイの第9回に書いたように、英国は11世紀の「ノルマン・コンクエスト(征服)」以来の経緯があり、全盛期のヴィクトリア朝時代になる頃までは上流階級の料理はフランス料理を指した。礼儀作法もフランス式を手本としたと思うが、英国の礼儀作法は洗練されていなかった。英国は百年戦争(1339~1453)でフランスに敗れたために大陸の領土を失い小国に転落していたが、エリザベス1世(在位1558~1603)の時代に、アルマダの海戦でスペインの無敵艦隊に勝利し、海上権を奪い海洋王国となった。東インド会社による植民地政策の貢献もあり、この時代の英国は絶対王政の全盛期となっただけでなく、シェイクスピアを始めとする英国文化が開花した時代でもあった。女王自身も五カ国語を流暢に話すことができ、外国の大使とも通訳なしで議論を交わせるだけの教養があった。また、王位にふさわしい装いをするために高価な贅沢品をイタリアから大量に持ち込み、宝 石や真珠を縫い付けた豪華な衣装やアクセサリーを身にまとった。
 こうして英国は裕福な国となったが、当時の食事にはスプーンとナイフだけを使っていた。フォークが英国に登場したのは、1608年に旅行家トマス・コリアットがイタリアからフォークを持ち帰った時で、1603年に亡くなったエリザベス1世はフォークを知らない。フランスと同様にフォークはすぐには普及せず、1688年の名誉革命以降にフォークで食べるパスタが流行したことで、上流階級にフォークが浸透した。同時にナプキンの使用法も変化した。指で食べる際、衣服が汚れるのを防ぐために肩に掛けられていたものが、17世紀には膝の上に置かれることになった。

(2)上流階級はグランドツアーで修行へ
 16世紀後半頃から、野暮な国であった英国の上流階級の子弟は学業を終えると、イタリアやフランスへ教養と礼儀作法を学びに「グランドツアー」と呼ばれる留学をした。留学は数カ月から8年の期間であり、お目付け役として家庭教師も同行した。大陸のイタリアやフランスが礼儀作法の手本とされ、英国の上流階級は礼儀作法や美術鑑賞能力の修得のためにこぞって子弟を留学させた。留学先は17世紀の初期まではイタリアだったが、のちにフランスが人気となった。フランスは、ルイ14世によって洗練された上品な礼儀作法や社交生活のマナーがしっかりと確立されていたので、留学した英国上流階級の子弟は粗野な英国人の痕跡を消そうとかなり努力をしたようだ。そうしたフランス気取りの英国人留学生を見て、フランス人は芝居や風刺画などで皮肉り嘲笑の対象とした。また、留学した子弟たちの中には英国国教会やプロテスタントの節制や禁欲の厳しい英国から、カトリックの開放的なフランスの社会に入ると道を外し、酒と女性にほとんどの時間を費やした輩もいたようだ。しかし、このグランドツアーもフランス革命(1789~1799)とナポレオン1世(在位1804~1815)の登場で一旦終焉を迎える。

(3)礼儀作法が確立されたヴィクトリア朝時代
 18世紀頃から、プロテスタントの影響もあってか、「食事中には、フランス人のように会話を楽しむのではなく、遠くの席の人とは話をせず寡黙であること」といったフランスとは異なる独自の「英国式礼儀作法」がでてきた。19世紀になると、英国は領土の拡大と富の力によりヨーロッパで優位を保ち、民族的にも、道徳的にも、世界のどの国よりも優秀だと自負するようになり、大英帝国にふさわしい礼儀作法が必要だと考えるようになった。また、産業革命によって封建領主が没落する一方で、産業革命の中心となり巨大な富を集めた産業資本家などの新興勢力が現れたが、新興勢力の彼らは必ずしも洗練された礼儀作法を備えていなかった。そうした彼らを「ジェントルマン」という定義が曖昧な支配階級に属させるとともに、「ジェントルマン」にふさわしい人格、教養を備えた理想像というものが明確に定義されたのであった。
 英国ではハノーヴァー朝(1714~1901)以降、「君臨すれども統治せず」として、議会政治が定着した。英国の最盛期であるヴィクトリア女王(在位1837~1901)時代には女王自身は政治に関与せず、国民にとっての精神的な支柱となることを求められた。高潔で真面目な性格の女王は、フランスのように宮廷を堕落させず、理想的な王室一家を築くことで国民から敬愛され、国民の模範となっていた。英国の支配階級である「ジェントルマン」も単に礼儀作法だけでなく、その社会階級にふさわしい信念をもち、それに恥じない行いをする人となって国民から尊敬されることが求められた。こうして英国の繁栄とともに、ヨーロッパにおける新しい礼儀作法の中心はフランスのヴェルサイユからロンドンに移った。

4.階級概念の変化がおよぼした影響とは

 ここで英国の階級制度の変化を考察したい。
 英国の階級は主に上流・中流・労働者階級からなる。まず、上流階級は中世以来の家系を継ぐ「王族・貴族」と中世後期に土地を集積した「ジェントリ」から構成された。「ジェントリ」は爵位を持たない大土地所有者で、最低でも1000エーカー程度の土地を所有し、労働する必要がない層である。17世紀初頭に「王族・貴族」と「ジェントリ」を合わせて「ジェントルマン」と呼ぶようになり、彼らは地代収入で生計を立てる一方で、支配階級として国会議員や判事、慈善活動など社会に貢献する役目すなわち「ノブレス・オブリージュ」の義務を担っていた。
 中流階級は頭脳労働の担い手であり、商業、工業、金融業で財産を築いた「ブルジョア階級」と弁護士、医師、軍将校といった「専門職」の2種類がある。勤労と倹約が美徳とされる一方、上流階級の生活スタイルを真似することも多かった。中流階級は上層、中層、下層の3クラスに分けられ、下層では低収入で労働者階級と大差ない暮らしをしていた者が多かった。産業革命後の土地所有を基盤としないブルジョア階級もこの層に含まれ、19世紀には「ジェントルマン」を中心とする支配階級に中流階級も加えるための教育改革も進められた。
 全体の大宗を占める労働者階級は、小作人、工場労働者、街頭商人といった肉体労働者で構成されたが、労働者の中でも熟練労働者は「労働貴族」と呼ばれる豊かな暮らしを送っていた。
 富を貯めて土地を保有すれば「ジェントルマン」となることが可能になると、19世紀には貴族・地主以外に、植民地のプランテーションや株式の形で巨額の資産を有している者も「ジェントルマン」に加えられるようになった。そうした裕福な新興勢力を加えたジェントルマン階級層が、国会議員として政治勢力となるとともに、保有する資産が金融やサービス活動に投資され、英国経済に繁栄をもたらした。また、産業革命後には階級制度によって規制されていた社会通念が外され、庶民が貴族の生活様式を真似ても、処罰されたり批判されたりすることがなくなった。こうして階級の境目が流動的となり、階級制度が緩やかとなった。
 アイルランド生まれの英国の劇作家バーナード・ショーは「マイ・フェア・レディ」の原作「ピグマリオン」で貧しい花売り娘イライザの下町訛りの矯正を題材に英国の階級社会を風刺した。皮肉屋の彼は、英国で「ジェントルマン」が支配階級として存続できたのはフランス革命やロシア革命のような社会を根底から揺さぶるような革命が起きなかったからであり、「上流階級は余暇と経済力があるから、言葉に象徴されるような教養や生活様式を維持できたのであり、一皮むけば人間の中身は皆同じである」と考えていたのだろう。



 今回は、そもそも礼儀作法に問題がある私にとって大変書きづらいテーマであった。
 次回は17、18世紀の産業革命当時を中心に魚料理の歴史を「フィッシュ&チップス」を題材にして辿りたい。違う分野を取り上げるつもりだったが、テレビでアガサ・クリスティーの『名探偵ポアロ』の邦題『黄色いアイリス』を観ていた時のことだ。英国料理を不味いと馬鹿にしている食通のポアロが、ドラマの最後のシーンで相棒のヘイスティングと美味しそうに英国の名物「フィッシュ&チップス」を食べる場面があったのだ。そこで英国名物についても書くべきだと思い、決断した。

 

AI時代からの考察:「18世紀の英国で産業革命が起きた訳とは」[第10回]~2020年12月号

 英国といえば、ティー・ブレイク、アフタヌーン・ティーなど「紅茶」というイメージが強い。1773年には茶を巡って米国との間でボストン茶会事件も起きている。英国はなぜコーヒーやココアではなく、紅茶を国民的飲み物として選択したのだろう。
 今回は英国の朝食とともに、英国人が発明し愛飲した「砂糖入り紅茶」を取り上げ、併せて「紅茶」と「砂糖」の歴史も辿りたい。

1.英国での朝食の位置付け

(1)英仏で違う朝食のスタイル
 英国では「breakfast」つまり「断食を破る」に語源を持つ朝食は、栄養があってバラエティーに富み、量が多い食事であるフルブレックファストが好まれた。「働くために食べる」という国民性の英国では朝食が一番大事なものだったので、朝から豪華に卵、ベーコン、ソーセージなどさまざまな料理を食べるのである。「月と六ペンス」で有名な英国人作家サマセット・モーム(1874~1965)は皮肉を込めて「英国料理で一番おいしいのは朝食。1日3回朝食をとればよい」と言ったらしい。
 一方、欧州大陸のフランスやイタリアでは「食べるために働く」のが国民性なので、昼食や夕食にゆっくりと時間をかけて美味しいものを食べた。ちなみにフランス語では昼食を「déjeuner」と言う。意味は英語と同様「断食を破る」ことである。そして朝食は「petit déjeuner」と言い、petit(小さい)が付く。「小さく断食を破る」朝食は正式な食事としてカウントされず、簡単にパンとコーヒーだけで済ませるコンチネンタル・ブレックファストとなったのである。フランス人は昼や夜にたくさん食べるので、朝はそんなに食べられないのだ。私が昔フランスに下宿していた時も、朝食はいつもカフェオーレ、ビスケット、ヨーグルトだけの簡単なもので、午前中ものすごく腹が減ったことを思い出す。

(2)産業革命期における労働者の朝食
 しかしながら、18世紀後半の産業革命初期に豪華なイングリッシュ・フルブレックファストを食べたのは、貴族など富裕層の話である。当時の労働者の朝食は、屋台で買ったライ麦の黒パンや、牛乳とオーツ麦で作られたポリッジ(お粥)など粗末なものであったが、必ず「砂糖入り紅茶」も飲んだらしい。家族総出で働く労働者一家が遅刻せずに家を出るには、熱い湯を注ぐだけで簡単に作れる「砂糖入り紅茶」は便利であった。しかも、砂糖のカロリーで元気が出て、カフェインで脳と体がフル回転するので、工場での長時間の重労働に耐えるには恰好の飲み物であった。ヴィクトリア朝時代(1837~1901)には産業革命が進展して生活水準が向上したので、働くために必要なカロリーを十分摂取できるように英国の一般的な朝食は徐々にボリュームのある重いものとなっていく。「砂糖入り紅茶」はその後も国民的な飲み物として消費が拡大していくのだが、実は英国で最初に人気となった飲み物はコーヒーであった。

2.英国と紅茶のつながり

(1)紅茶に先行したコーヒーハウス
 簡単にコーヒー伝来の歴史を辿る。コーヒー豆は原産地のエチオピアから13世紀半ばにアラビアを中心とするイスラム教国に伝わると、煎って煮出した苦みのあるコーヒーが勤行の際の眠気覚ましとして僧侶に飲まれ、一般にも広がった。その後トルコに伝わり、次いでイタリアにも伝播し、17世紀前半には英国に伝わった。この頃、英国はアラビアのモカコーヒーを英国の東インド会社を通じて輸入していた。17世紀半ばにはオランダがジャワやスマトラの植民地でコーヒー豆の栽培を始めコストダウンにも成功したので、ジャワコーヒーがモカコーヒーより安くヨーロッパに供給されるようになった。
 17世紀の英国では、茶より数年早く発売されたコーヒーが最初に人気となった。コーヒーの流通とともに英国でコーヒーを提供する店「コーヒーハウス」ができた。まず、1650年にユダヤ人のジェイコブがオックスフォードで開業したのが英国初のコーヒーハウスだ。当初は男性限定で酒を供しなかったので、真面目な雰囲気で安価に楽しめる場所として大人気となり、男性同士の情報交換や議論が活発に行われる世論形成の場となった。その後、コーヒーだけでなく紅茶やココア(チョコレート)なども提供され、18世紀初めにはコーヒーハウスは3000軒を超し、隆盛を極めたが、18世紀半ばから徐々に衰退する。メニューに酒類が加わると店の雰囲気が悪くなって、女性に毛嫌いされたり、商売敵の居酒屋から敵視されたりしたことなどが衰退の原因とされている。

(2)紅茶の伝播から紅茶文化の定着へ
 茶の原産地はインドであり、製造方法によって、発酵させない「緑茶」、発酵させた「紅茶」、発酵を途中で止めた「ウーロン茶」に分類され、香味も飲み方も大きく相違している。当初、英国で飲まれた茶は中国茶で、ほとんどが緑茶であったが、英国の硬水では緑茶が気の抜けたような味になった。茶には軟水が適するが、発酵茶の場合には硬水でもタンニン成分の抽出が抑えられ、渋みが出にくくなり味がマイルドになる。英国の硬水では発酵茶の方が美味しく感じられ、好まれるようになった。この発酵茶がのちに紅茶となるのである。
 茶を飲む慣習は、ヨーロッパではまずオランダから始まったらしい。17世紀初めにはオランダが中国・日本などからヨーロッパに茶を輸入し始めていた。英国で茶を飲まれるようになったのは、ポルトガル王国から英国に嫁いできた王女キャサリン・オブ・ブラガンザ(1638~1705)の影響が大きい。1650年にキャサリンは、チャールズ2世(在位1660~1685)との結婚のために、銀の代わりとして当時貴重品であった茶と船7隻に満載した砂糖を持参した。茶を愛飲するキャサリンは中国や日本の茶道具や磁器も英国に持ち込み、宮廷で朝のお茶会を催した。これが王侯貴族の関心を集め、茶を嗜むことが上流階級で広まった。中国や日本から伝わった洗練された茶器や作法が東洋への憧れとなり、英国人にとって茶は一層魅力的なものとなったのである。1657年にはトーマス・ギャラウェイのコーヒーハウスで茶葉が売り出され、店でも茶を飲ませるようになった。
 その後に即位するメアリー2世(在位1689~1694)やアン女王(在位1702~1714)も茶を好んだことで、茶を飲む慣習はステイタス・シンボルとして上流階級に定着し、家庭における女性の飲み物として中産階級にも広く普及する。1706年にロンドンで「トム・コーヒーハウス」を開いていたトマス・トワイニングも、1717年に女性も入店可能な英国初のティーハウス「ゴールデン・ライオン」をオープンした。インテリアに凝ったお洒落な雰囲気は女性客に大評判となった。一方、貧しい労働者にとっても茶は憧れであったが、まだ高価で手が届かず、出し殻を再利用した安い紅茶や代用品による偽物で楽しんでいた。1840年代のロンドンには、ホテルやコーヒーハウスなどから買い集めた茶殻を再利用する紅茶工場が8つもあったそうだ。17世紀半ばにコーヒーの国際競争でオランダに負けた英国は、貿易での力点をコーヒーから中国茶の輸入に移行したので、「万病に効く東洋の高価な神秘薬」と言われた茶の価格が下がり、庶民にも手が届く嗜好品となった。

(3)紅茶の消費拡大とアッサム茶の発見
 東インド会社の全輸入額に占める割合を見ると、1720年にはコーヒーが8.1%、茶が4.5%とコーヒーが優勢だったが、1860年になるとコーヒーが5.7%で茶が39.5%となり、茶が断然大勢を占めるようになった。また輸入した茶の内訳は18世紀初めには緑茶55%、紅茶45%であったものが、18世紀半ばには紅茶66%、緑茶34%と紅茶へ嗜好が移行している。こうして茶がポピュラーな飲み物として定着した英国では他のヨーロッパ諸国の全消費量の約3倍の茶を消費するようになった。
 茶の供給を中国に依存していた英国は、新たな栽培地を求めていた。紅茶の栽培に適した北緯45度から南緯35度までをティー・ベルトと呼ぶが、1823年に英国政府の密命を受けた英国軍人ロバート・ブルース少佐が、インド・アッサムで野生の茶を発見し、インド茶の栽培に成功する。芳醇な香りでコクがあって味が濃いアッサム茶はロンドンで好評を博し、1837年には茶の製造が始まる。味が濃いアッサム茶はミルクをたっぷり入れても茶葉の風味が損なわれず、ミルクとの相性が非常に良かったので、ミルクティーが愛好され、英国の伝統的な飲み方となったようだ。1850年にはアッサムでの茶園数は1つしかなく、生産高21万ポンド程度であったが、1871年には茶園数が295まで急増して、生産高も30倍の625万ポンドまで急増した。その後、英国はスリランカでも茶栽培に成功し、紅茶が大幅に安くなったことで更に国内で消費が拡大した。

(4)アフタヌーン・ティー
 紅茶を飲む習慣は、上流階級の女性を中心に拡がったことで上品さのシンボルとなり、ヴィクトリア朝時代にはアフタヌーン・ティーが習慣となった。
 英国の伝統となったアフタヌーン・ティーは1840年頃にベッドフォード公爵夫人のアンナ・マリア(1783~1857)が始めたと言われる。当時は昼食から夕食までの時間がかなり空いたので、空腹を満たすために午後4時のアフタヌーン・ティーとして紅茶と軽食をとったのが始まりであり、徐々にこの習慣は中産階級にも広まったのである。また、アンナは過去に数年であるがヴィクトリア女王の側近を務めており、女王からの信頼が厚かった。そのアンナから茶会に招待されたヴィクトリア女王は、茶会が大変気に入り宮廷内でもアフタヌーン・ティーを始めたそうである。夫アルバートと9人の子供からなるヴィクトリア女王の王室ファミリーは当時の英国女性にとって「良き家庭」のシンボルであったので、「一家団欒」と「女王の好きな紅茶」のイメージが重なり、アフタヌーン・ティーの人気につながった面もあるようだ。

3.砂糖と英国のつながり

(1)砂糖の伝播
 サトウキビの原産地はインドと言われている。8世紀にはイスラム教徒が支配した地域にサトウキビの栽培と製糖技術が伝えられ、今のトルコからイタリアにかけての地中海東部の島々で栽培が盛んとなった。11世紀後半以降、十字軍の遠征やイスラム世界との交易を通じて、サトウキビ栽培と製糖の技術がヨーロッパに伝えられた。甘味と言えば蜂蜜ぐらいしか知らない当時のヨーロッパ人にとって、真っ白な砂糖は強いインパクトがあったと思われる。また、サトウキビから作る砂糖は世界的な商品となるための要件である大量生産が可能であった。
 15世紀末当時の強国スペインはサトウキビの栽培よりも金・銀の獲得に注力していたが、ポルトガルは大西洋の沖にあるマデイラ島やカナリア諸島などで、アフリカ人奴隷を使ったサトウキビのプランテーションを大規模に展開した。ポルトガルは、世界的に人気のある砂糖への需要に対応するために新たな栽培地を求めて、手狭となった大西洋の島々からポルトガル領となったブラジルへと栽培地を移した。16世紀にはブラジルが世界の砂糖生産の中心となる。
 17世紀になると世界の貿易ルートを押さえたオランダ人の仲介によって、英国が英国領のカリブ海の島々でも砂糖の栽培を始めた。今まで英国にとって役に立たなかった島々が一面サトウキビ畑となり、一挙にサトウキビ栽培だけのモノカルチャー社会となった。特に英国領のジャマイカが砂糖生産の中心地となり、17世紀後半には大量の砂糖をヨーロッパに輸出している。

(2)プランテーションと三角貿易
 サトウキビの栽培は土地の養分を大量に消耗して土地を疲弊させるので、次々と新しい耕地を求めて移動する必要があった。また、熱帯や亜熱帯でプランテーションの砂糖を搾って煮詰める作業はかなりの重労働であり、かつ栽培には一年を通して大量の人間を必要とした。ポルトガルはアフリカのギニアやアンゴラで奴隷の獲得ルートをもっていたので、ブラジルでサトウキビのプランテーションを始めることができたのである。
 英国の奴隷貿易船はアフリカへ鉄砲やガラス玉、綿織物をもっていき、奴隷と交換した。その奴隷を南北アメリカやカリブ海域で売って、砂糖に交換して母港に帰った。こうした「三角貿易」は約2カ月かけておこなわれた。西アフリカの奴隷貿易を独占した英国の王立アフリカ会社が1672~1711年に供給したアフリカからの奴隷数は約9万人であり、航海中には多数の奴隷が飢えと病気で死亡した。1694年のハンニバル号の航海では700人の奴隷のうち320人が死亡したと言われる。一方、三角貿易で稼いだ砂糖商人は蓄えた富を英国の産業などに投資したので、産業革命推進の原動力となったが、既得権益を守るために資金力で政治家になった者もいた。

(3)砂糖の効用と砂糖入り紅茶の登場
 銀と同等に貴重品であった砂糖は、当初は茶と同じく薬品や儀礼用とされた。中世のイタリアでは、砂糖は熱病、咳、胸の病気、唇の荒れなどに効果があるとされた。14~15世紀には、黒死病として恐れられていたペストに砂糖が有効だと考えられていたらしい。こうして砂糖は薬、装飾品(デコレーション)、香料、甘味料、保存料などに利用された。しかし16世紀には虫歯の原因だと分かり、18世紀頃からは砂糖の過剰摂取は糖尿病などを引き起こし、体に良くないと言われ始めたようだ。
 1650年にポルトガルから来た王女キャサリンが茶に砂糖を入れたと言われる。茶は宮廷で愛飲されたことで庶民の憧れとなり、更に茶や砂糖の新たな獲得ルートを海外に確保したことで大幅に価格が下がり、庶民にも「砂糖入り紅茶」が人気となった。19世紀には英国は世界一砂糖を消費する国となる。



アフタヌーン・ティー  2016~2018年の国際統計では、年間一人当たりの紅茶消費量の世界No.1はトルコだ。かつてNo.1であった英国は世界5位である。また、同様に過去世界No.1であった砂糖消費量も健康を意識してか、2019年度の一人当たり年間砂糖消費量は世界の平均並みの26.9kgであり、欧州では少ない部類に入る。
 前号の「英国の食事は不味い」で英国人作家ジョージ・オーウェルのエッセイを引用したが、今回も1946年の夕刊紙に掲載された「一杯のおいしい紅茶」という記事を紹介したい。オーウェルは「完全な紅茶のいれかた」として譲れない処方を11項目挙げているのだが、最後の11項目は「紅茶にはロシア式でない限り、砂糖を入れてはいけない。せっかくの紅茶に砂糖など入れて風味を損なってしまうようでは、どうして紅茶好きを自称できよう」と忠告しているのだ。オーウェルは砂糖を入れないのは少数派であることを認めつつも、砂糖抜きを推奨している。現在の砂糖の消費量から類推すると、健康ブームもあり、砂糖抜き派が増えたことだろう。私もコーヒーも紅茶も砂糖抜き派である。
 次回はヴィクトリア朝時代に確立されたと言われる英国式マナーについて辿る。

 

AI時代からの考察:「18世紀の英国で産業革命が起きた訳とは」[第9回]~2020年11月号

 林望氏の随筆『イギリスはおいしい』(1991年)の第1章は「塩はふるふる野菜は茹でる」で始まる。日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した愉快な傑作エッセイで、国文学者の著者が英国滞在中の体験をもとに英国の食生活について執筆した。本のタイトルに反して、著者は「英国の食事が概して不味いことは世界の定評であり、私自身もある意味で認めざるを得ない」と述べ、「塩気とテクスチュア(口触り、歯触り)における無神経さが英国料理の欠陥」と結論づけている。
 また、小説『動物農場』や『1984年』で有名な20世紀の英国作家ジョージ・オーウェルは1945年の夕刊紙のエッセイ『イギリス料理の弁護』で「英国料理は世界最低との定評があり、英国人自身もそう言っている」と嘆いていた。近年では、2005年の英国でのG8サミットの時、フランスのシラク大統領がドイツのシュレーダー首相とロシアのプーチン大統領とのトップ会談で英国について「料理の不味い国の人々は信用できない」と冗談を言ったことで、物議を醸した。
 「英国料理は不味い」という定評が確立された要因はいくつかあると言われており、その一つに産業革命の影響が挙げられる。今回は、「不味くなった理由」に歴史上どのような背景や経緯があったのかを辿る。

1.英国料理が不味くなった要因とは

 産業革命が始まる前までは、食材の少ない英国でもそれなりに豊かな食文化があったと言われる。英国料理が不味くなったのには主に4つの要因があるように思う。
 1つ目は、隣国フランスとの関係である。イングランドが1066年にフランスのノルマンディー公国に征服され、フランス語を話すノルマン人が王侯、貴族となり、上流階級の料理はフランス人料理人が作ることになった。これ以降、最高の英国料理はフランス料理そのものを指すようになったようである。
 2つ目は、ピューリタン革命後の節制生活である。ピューリタンの節制の精神が基本となり、「食に関心をもってはならない」との風潮ができた。
 3つ目は、第二次囲い込み運動と農業革命である。この影響で農民は共有地での採集が不可能となり、生活の場としての農村や菜園は消え、同時にさまざまな食材や調理方法の伝統も消えていった。
 4つ目は、産業革命と都市化の影響による生活の商業化である。自給自足していた農民が都市に流入して賃金労働者となると、料理にかけるお金と時間の余裕はなくなった。
 以上の4つの要因について、詳しく見てみたい。

2.不味い料理となった4つの要因

(1)隣国フランスとの因縁の歴史
 英仏が長年にわたって強いライバル意識をもっていることは有名である。そこにはドーバー海峡を挟んだ両国の長い歴史が関係している。
 対抗意識のルーツは1066年の「ノルマン・コンクエスト(征服)」であろう。9世紀にアングロ・サクソン人のアルフレッド大王が統一イングランド王国の基礎を築いた。その後、イングランド王国ではスカンジナビア半島のデーン人による侵略や一時的な支配の時期はあったが、1042年にはノルマンディーに亡命していたアングロ・サクソン人のエドワード証聖王が即位した。しかし、彼が1066年に亡くなると、フランスの一部にすぎないノルマンディー公国のギヨーム2世が王位継承権を主張してヘイスティングの戦いが起きる。この戦いでノルマンディー公国が勝利し、ギヨーム2世はイングランド王国のウィリアム1世として即位して現在の英国王室の開祖となった。1086年には主要領主や聖職のほとんどがノルマン人に取って代わり、宮廷を始めとした上流階級の公用語がフランス語となった時代が1362年まで続いた。
 「支配層はノルマン人、被支配層はアングロ・サクソン人」という階級構造は言語にも影響を及ぼし、動物そのものを示す言葉と食肉用を示す言葉が異なるようになる。元々アングロ・サクソン人が食べていた「鶏」は動物も肉も「chicken」なのだが、牛、豚、羊は下記のように言葉が分かれた。「アングロ・サクソン人が育てる牛」は英語の「cow」となり、「ノルマン人が食べる牛肉」はフランス語の牛「boeuf」が転じて英語の「beef」となったのである。そして、長い歳月を重ねてフランス語が英語に転化していくと同時に、イングランドに定住したノルマン人も英国の貴族として土着化していった。

動物(英語) 動物(仏語) 食肉(英語)
cow boeuf beef
pig porc pork
sheep mouton mutton
 ノルマン・コンクエスト以降、英仏でいくつもの戦争が起きる。1337年には今度はイングランド王のエドワード3世がフランスの王位継承権を主張して百年戦争が始まる。ジャンヌ・ダルクの登場もあって最終的にはフランスが勝利し、フランス国内にあったイングランド領はほぼ消滅し、ワインの産地ボルドーも失うことになる。1689年にはアメリカ大陸やインドをめぐって英仏植民地戦争が起きた。1756年の七年戦争ではプロイセンとオーストリアとの対立を軸として英仏が敵味方に分かれた。ナポレオン戦争では、1805年にフランスが英国に対して大陸封鎖しようとして失敗する。また、17~18世紀においては、イングランドは「プロテスタントに近い国教会」で「立憲王政」であるのに対して、フランスは「カトリック教」で「絶対王政」であり、政治・宗教面でも対照的であった。こうして大雑把に近代までの英仏関係の歴史を見ても、さまざまな両国の出来事が絡み合い、双方の対抗心を強めていったことが分かる。
 しかし、ノルマン・コンクエスト以降、英国では、「腕前が良い料理人はいつの時代もフランス人」と相場が決まっており、英国貴族の多くが高給取りのフランス人料理人を置いていた。ナポレオン戦争時代の対仏感情が悪い時はさすがにフランス人料理人を雇うのを控えていたが、英国が世界の覇権を確立すると、フランスへの警戒心がなくなり、厨房に彼らを呼び戻した。長年にわたってフランス人料理人に占められた英国の厨房から、英国伝統料理を確立させることは難しかったのかもしれない。

(2)ピューリタン革命による節制生活
 英国が「食に関心をもたない」ようになるのはピューリタン革命が大きく影響している。ピューリタンとは、清潔や潔白を表すpurityに由来する。ピューリタン(清教徒)はカルヴァンの影響を受けたイングランド国教会の中の改革派であり、宗教改革を徹底することで、国教会の浄化を目指し、合理主義の立場で禁欲や勤勉を説いた。1620年に一部のピューリタンが信仰の自由を求めてメイフラワー号に乗って北アメリカに移住したことは有名な話だ。
 1642年のピューリタン革命では、専制政治をおこなうチャールズ1世王党派とピューリタンが主力となる議会派の間で内戦が勃発、1649年には議会派の勝利によってチャールズ1世が処刑され、共和制が実現された。その際、権力を握ったのが革命の指導者オリヴァー・クロムウェルである。このピューリタンの指導者によって、ありとあらゆる享楽が罪悪視され、スポーツ、劇場、化粧、華やかな衣装も禁止されたようだ。
 特に「食事は関心を持ってはいけないもの」であった。当時の有名な牧師リチャード・バクスターの説教には「食事時間は15分もあれば十分で1時間も費やすなど馬鹿げたこと」、「おいしそうな食事は悪魔の罠なので目にすべきではなく、貧者の粗食を食べるようにすれば地獄落ちから免れる」とあるそうだ。隣の美食の国フランスについては「王様と宮廷を中心として食に拘り、堕落している」と見下げていた。
 英国の支配層であるジェントルマンには「肉を茹でるか焼くだけでソースなどをかけずに食べること」が推奨され、そうしたジェントルマンの子弟が寄宿するパブリック・スクールでは粗食が徹底された。昨今では「3歳までの食経験が、その人の一生の味覚を左右する」と言われるが、当時の育児書には「食に関心を持たせないために離乳食は単調で不味くすべきである」と記載されていたらしい。まさに、「三つ子の魂百まで」だ。
 その後、クロムウェルの厳格で独裁的な政治手法は国民の支持を失い、彼が亡くなった2年後の1660年には王政復古となる。クロムウェルによる11年にわたる共和制の間も、英国なりの豊かな食文化は残っていたが、「味に頓着せず、食事は単なる燃料補給」という意識が定着した。こうした意識がその後の産業革命期でさらに強くなり、英国では伝統的に「目の前にある飲み物や食べ物に無関心を装うのが行儀が良い」と考えられるようになった。

(3)囲い込み運動による伝統の食文化の消失
 17世紀までは英国の人口の4分の3が農村部に住んでいた。英国の気候や土壌では野菜の種類が少なく、グリーンピースなど豆類やキャベツ、ネギ、タマネギ、レタス、はつか大根、アスパラガス、ホウレンソウぐらいしかなかった。18世紀に入っても野菜の供給は十分ではなかったが、農民は森や川などの「共有地」に自由に出入りして、薪、果実、野生鳥獣、魚、キノコなどを採取し、自給自足の生活が可能であった。村のお祭りや祝宴では季節感のある食事がさまざまな調理方法で提供され、伝統料理も伝承されていた。
 しかし、17世紀後半に食糧増産のために「第二次囲い込み運動」が始まると、生活の場としての農村が急速に衰退していく。「第二次囲い込み」では、まず「三圃制農業」から「ノーフォーク農法」に転換する農業革命が進み、農業生産性が大幅に向上した。その恩恵を受けるために地主や農業資本家は共有地などの解放耕地を囲い込み、土地を集約して大規模農場経営を始めた。この運動によって「共有地」が私有地化されると、農民はそこへ立ち入って食材を採集することができなくなった。私有地となった共有地での採取は窃盗行為となるからである。
 囲い込みによって、土地も働き口も失った中小規模の自営農民は、地主に雇われる農業労働者になるか、同時期に起きていた産業革命の工場労働者として都市へ流入することになる。農村では人口が激減し、存続することが難しくなると、農村で育てていた菜園や庭畑は荒廃し、豊かな食材や調理方法の伝統も同時に消えていったのであった。

(4)産業革命と都市化による生活の商業化
 「第二次囲い込み」によって、働き口を失った農民が都市に大量に流入して工場の賃金労働者となったことで、1801年までにはイングランドの人口の3分の1が、1848年までには約半数が都市の住民となった。急激な人口増加に都市の住宅供給は追い付かず、不衛生なスラム街が形成された。工場の煤ばい煙えんによる大気汚染や水質汚染、コレラなどの疫病の流行によって労働者の居住環境は劣悪であった。
 キッチンや水道、トイレもなく、安普請の家に暮らす中で、食生活も大きく変化する。農村では共有地で薪を拾ったり、自分で野菜を栽培したりするなど自給できたのだが、都市に住むと燃料の石炭から飲料水まで、衣食住のほとんどのものを市場や店でお金を出して買うようになった。都市では家庭はもはや生産の場ではなくなり、消費を中心とした生活の場となったのである。こうして生活の商業化が起こると、収入の少ない労働者の生活は大変であった。
 都市労働者は賃金収入を増やすために、妻、子供も含めた家族全員が働くことになった。しかも工場労働者は労働時間を対価に賃金を受け取るので、朝の出勤に遅刻しないように、朝食は手間のかからない簡単なものとなった。また、工場では過酷な長時間労働なので、帰宅後ゆっくりと料理する時間もなかった。燃料費などで家計負担が増えると、食材の品質を低下させたり品数を減らしたりするので、調理法はおのずと単純なものになっていく。塩と胡椒だけの単純な味付けでも、ましな方だったのだろう。
 また、都市の狭小な住宅では、食料品を保存しておくスペースもなく、食材は腐らないように半ローストにするか、下茹でするしかなかった。消化不良をさけるという理由もあるが、コレラの流行などの問題もあり、生野菜や生の果物は不衛生なので食べず、食材を十分すぎるほど加熱するのが常識となる。これについては冒頭のエッセイの中で、林望氏が「呆れるほど長い時間をかけて茹でたことでぐずぐずに崩れた野菜」と嘆いている。ちなみに徹底的に茹でるのは、口臭と放屁を防ぐための社会道徳的な防衛策だったという説もあるらしい。

3.戦争で見える英仏の食文化の違い

ローストビーフ  都市に住む労働者たちは、とりあえず焼くか茹でただけの料理でも、胃袋さえ満たせれば味はどうでもよいという状況であった。こうした環境が戦争においても影響を与えている。1848年から発行された英国婦人雑誌『ファミリー・エコノミスト』では、英仏の違いについてナポレオン戦争での興味深いエピソードを取り上げている。記事の内容は次の通りだ。
 「1808年のナポレオン戦争スペイン戦線で英仏とも軍の食料補給に困ったことがあった。フランスの兵隊は乏しい材料の中でも肉を細切れにして叩いて伸ばしたり、辺りから野草や自生の野菜をかき集めたりした。その具材の味付けや調理方法にも工夫を凝らしてシチューを作るなど、少しでも栄養のある美味しい食事を提供しようとした。一方、英国の兵士は肉の塊を石炭の火で炙るだけで、大部分を真っ黒こげの灰にし、火がかからない部分は生のままという有様。せっかくの肉も台無しとなり、兵士は腹をすかしたままであった。その結果、フランスの兵士は英国の兵士より、はるかに強さを保持した」。
 ナイチンゲールの活躍で有名なクリミア戦争(1853~1856年)でも同じようなエピソードがあり、伝統的に英国では階級を問わず「調理法の工夫が足りない」ことを示している。



 英国料理の不味さの要因について、さまざまな角度から探ってきたが、味覚は主観であり、好みもいろいろである。英国のステーキやローストビーフは美味しいと評判であり、それ以外の料理にも多くのファンがいる。
 冒頭で触れたジョージ・オーウェルのエッセイ『イギリス料理の弁護』にも続きがある。彼は「英国でなければ絶対手に入らない美味しいものが実に多い」と英国料理を称賛し、「独創性と材料に関する限り、英国料理を恥じるいわれはない」と断言している。ただし、「個人の家庭以外では上等な英国料理はお目に掛かれない」とし、「高級レストランやホテルはフランス料理の真似をし、安くて美味い料理を食べたい時はギリシャ、イタリア、中華料理の店に足が向く」と語っている。美味くて安い英国料理のレストランを見つけるのはなかなか難しいようだが、2013年から英国政府は「英国料理が不味い」という定評を払拭するために、英国料理の美味しさを体験するキャンペーン「Food is GREAT」を日本で実施している。また2020年のミシュランガイドでは、英国は169軒のレストランが星を受けている。
 次回は産業革命によって大きく影響を受けた英国式朝食、特に砂糖入り紅茶やアフタヌーンティーを中心に引き続き食文化の歴史を辿る。

 

AI時代からの考察:「18世紀の英国で産業革命が起きた訳とは」[第8回]~2020年9・10合併号

 チャールズ・チャップリンの傑作映画の一つ「モダン・タイムス」では、製鉄工場で働く主人公チャーリーが機械文明に翻弄される姿が描かれていた。チャーリーが歯車に巻き込まれるシーンが有名であるが、まさに労働者が機械に振り回され、時間に束縛される工業社会を風刺するものだ。英国産業革命においても、工業社会の到来とともに労働者は時間に縛られるようになった。労働者を中心として「時間に対する意識」が産業革命期において、どのように変化したのだろうか。
 英国で誕生した鉄道は、大量・迅速・安価な輸送手段として発展し、人々の「時間に対する意識」を大きく変化させていった。鉄道によって人々の日常生活が便利になっただけでなく、それまでの大雑把な時間管理がきめ細かくなったのだ。また、過酷な労働環境にあった労働者が待遇改善されると、鉄道を余暇時間の活用手段として利用するようになり、旅行業が脚光を浴びるようになった。余暇時間に対する意識の変化だ。
 今回は、鉄道の発展による社会の変化、時間管理の変化とともに、それにともなう余暇時間の活用と近代旅行業の創始者トーマス・クックについて辿たどる。

1.鉄道の発展による社会の変化

(1)鉄道網の形成と大量輸送
 1830年に開業したリヴァプール・マンチェスター鉄道の成功はたちまち全国に知れ渡り、1840年までには主要都市間の鉄道はほぼ完成した。さらに1845年頃から、鉄道会社が投資目的で一斉に幹線につなぐ支線の建設に乗り出し、1850年には5000マイル(約8000km)の一大鉄道網が完成した。リヴァプール・マンチェスター間の輸送力は馬車の時代には駅馬車が全便満員でも1日700人までが限界であったが、鉄道ができたことで1日平均1100人と大量かつ安全に輸送できるようになった。

(2)高速化と運賃の低下による通勤圏内の拡大
 鉄道の速度において、かなりの高速化が図られた。スティーヴンソンの蒸気機関車を例に速度の推移を見てみよう。1825年開通のストックトン・ダーリントン鉄道で走行した「ロコモーション1号」は平均時速6マイル(9.6km)と遅かったが、1830年開通のリヴァプール・マンチェスター鉄道で走行した「ロケット号」ではその倍の平均時速12マイル(19.2km)となった。1860年にはノース・イースタン鉄道で「改良型ロケット号」がその3倍の時速42マイル(67.2km)を達成した。
 1841年に開業したロンドン・ブライトン鉄道(全長約76km)の2等クラスの往復割引切符は当初15シリングであったが、わずか8年で3シリング半にまで安くなった。1847年には労働者が沿線に多く住むイースタン・カウンティズ鉄道で、通勤圏は2ペンスという安い運賃で往復ができるようになった。また、当初高額だった鉄道の定期券は上流階級や株主向けに販売されていたのだが、運賃が安くなると19世紀後半には労働者が通勤用として利用するようになる。
 鉄道によって通勤圏内が拡大すると、金銭的に余裕がある一部の労働者たちは劣悪な環境の都市部から脱出して、環境の良い郊外に移り住むようになった。

(3)鉄道による日常生活の利便性向上
 これまで都市部では飲み水が不衛生でコレラや腸チフスなどに罹かかる心配があったので、水の代わりにビールやジンを飲んでいた。牛乳も腐りやすいので飲めなかった。しかし鉄道によって大量輸送が迅速にできるようになったおかげで、遠隔地でも新鮮な牛乳だけでなく、生鮮食料品も安定的に手に入るようになった。
 郵便、新聞、雑誌も鉄道によって格段に速く届くようになっただけでなく、蒸気機関を利用した印刷機の性能向上で印刷物の価格も下がっていた。1840年には、成人の「読む能力」は75%、「書く能力」は60%に達していたこともあり、新聞や書籍の購読者が増え、貸本屋も流行ったらしい。ロンドンの最新のファッションも地方に短期間で浸透するようになった。
 農作物については地域の収穫状況によって価格が異なっていたのだが、物流と情報伝達が速くなったおかげで、農作物の価格の差異が短期間で平準化されるようになり、都市と地方の物価格差が縮小した。

2.鉄道の発展による時間管理の変化

(1)鉄道における標準時間の設定
 こうして鉄道が一般的に利用されるにしたがって、列車の定時運行が求められ、時間管理がきめ細かくなった。18世紀後半までは、各地域の時刻は日時計によって決められ、国内で統一されていなかった。ロンドンの時刻はグラスゴーより17分早かったのだが、速度の遅い馬車の時代には30分程度の違いは何ら支障がなかった。

 しかし、鉄道網が各地に拡がるにつれて、二つの問題が生じた。一つ目は駅ごとに採用する時刻が異なっていたため、列車の発着時間に混乱が生じたことだ。二つ目は列車の本数が増加するにつれて、ダイヤが過密になり列車の事故やニアミスが増加したことだ。駅ごとにバラバラの時刻が利用されたままでは鉄道の時刻表を作成するのに都合が悪いので、1840年11月にグレート・ウェスタン鉄道が「グリニッジ平均時」に基づいた時刻表で標準化した。すると他の鉄道会社も次々に「グリニッジ平均時」を採用して、1855年までに鉄道全体の98%が採用し、時刻の標準化がほぼ完了した。

(2)鉄道の時刻表の普及と定時運行へ
1850年のイギリスの鉄道網  当初、時刻表には出発時刻のみ記載されていた。当時の蒸気機関車はスピードが一定せず、故障も多かったので、列車の到着時刻を確定できなかったのがその理由だ。しかし蒸気機関車の性能向上と利用者の要望によって、1837年のグランド・ジャンクション鉄道開通時には、停車する駅の到着時刻が時刻表に記載された。こうして鉄道会社ごとの時刻表は整備されていったのだが、英国全土を網羅した時刻表がなかった。そこに着目した印刷業者のジョージ・ブラッドショー(1801~1853)が1839年に全国鉄道時刻表を作成し、6ペンスという安い価格で出版すると、「遠距離旅行に役立つ」と旅行客の人気を集めた。
 鉄道の登場によって、大雑把だった時間管理がきめ細かくなると同時に、高速で安くなった鉄道を利用して労働者も余暇の楽しみとして旅行に行くようになる。次章では、労働者が余暇時間を活用するようになるまでのプロセスを追う。

3.労働者が余暇時間の活用に至るまで

(1)産業革命による労働時間の変化
 産業革命前、人口の大半を占める農民や職人は「仕事場」と「自宅」が一体もしくは近接しており、天候などの自然条件を見つつも時間に縛られず働いていた。自分が作ったものの対価として、「出来高払いの報酬」を受け取り、自給自足的な生活を営むのが一般的だった。
 産業革命では、さまざまな発明・技術革新によって工業製品が大量生産されるとともに、工場で働く労働者が急増した。労働者の大半は農村を出て都市部に流入してきた農民や職人たちだ。彼らは毎日自宅から工場に通勤し、経営者が決めた労働時間通りに仕事をして、「その労働時間の対価として報酬を得る」という生活に激変した。つまり、時間に束縛される生活に変わり、労働時間と非労働時間、いわゆるオン・オフの区別が明確となったのだ。しかし産業革命の初期において、労働環境は過酷であった。

(2)劣悪な環境と住居を強いられた労働者
 英国では19世紀に人口が急増し、離農した農民などが都市へ労働者として大量に流入したことで、都市の環境悪化と労働者の劣悪な住宅事情をもたらした。イングランドの人口は1800年の860万人から1851年には2倍の1681万人に急増。しかも人口の約半数が都市部に集中する異常事態である。
 多くの労働者は三方を壁で囲まれた安やす普ぶ 請しんの長屋に住んだ。家は風通しが悪く、トイレも水道もない代物であった。人口が急増すると、さらにスモッグなどの公害が発生し、コレラ、チフスなどの疫病も蔓延するなど都市の環境は著しく悪化していた。このような劣悪な環境の中で、賃金も低く貧しい労働者たちは団結して待遇改善を求めるようになり、労働運動が始まった。

(3)労働環境の改善による余暇時間の増大
 まず、幼い子供が1日15~16時間も働かされるという過酷な状況が社会的な問題となり、19世紀初めには産業資本家ロバート・オウエン(1771~1858)などから労働条件の改善を求める運動が始まった。そうした運動が実って、1833年の「工場法」の制定を皮切りに相次いで法律が見直され、労働時間の短縮や休日の増加など労働条件の改善が子供だけでなく大人にも実施された。1850年の商務省の調査では労働者の労働時間が週6日で60時間が標準となり、1867年には全国の工場に土曜半日制の勤務が適用された。ほかにも最低賃金の引上げ、食品の物価抑制などの対応も進められた。
 1837~1901年の期間はヴィクトリア朝時代と呼ばれて、産業革命による経済発展が成熟期に達する大英帝国の絶頂期であったので、公園、図書館、博物館といった公共施設の設置など社会資本の整備も随分図られたようだ。

(4)飲酒に代わる余暇時間の過ごし方
 一般的に「フランス人は飲むとおしゃべりをする。ドイツ人は寝てしまう。英国人は喧嘩を始める」と言われるほど、英国人は酒癖が悪いらしい。特に労働者階級は過酷な労働条件と劣悪な居住環境でストレスが溜まり、仕事が終わると毎日のように度数の高い安酒ジンを呷あおって憂さを晴らしていたので、アルコール中毒者が多かったようだ。
 特に休日の日曜日に度を越した飲み方をして、月曜日が二日酔いで仕事にならない労働者の数が夥おびただしいものとなり、工場などの操業を妨げていたので経営者は困っていた。このように生産効率が落ちる月曜日は「聖月曜日」と呼ばれ、労働者のこうした悪い習慣を断ち切ることが社会的な課題となっていた。
 「聖月曜日」に象徴される労働者の飲酒状況を憂慮して1830年に禁酒協会が設立されると、禁酒運動が各地で起こり全国に拡がっていった。議会も対応策としてアルコールの販売や消費を規制する法律を制定した。すると、飲酒に代わる娯楽として、ハイキング、ピクニックや海水浴など日帰り旅行が人気となった。
 ブライトンは元々上流階級の保養地として有名な場所であったが、1841年のロンドン・ブライトン鉄道の開通を機に海水浴場として大人気となった。1750年代には馬車で2日もかかった距離が、鉄道によって日帰り旅行が可能な片道2時間となり、運賃も安くなったからだ。労働者階級にとって当地は絶好の行楽地となり、海水浴客が群れをなして押し寄せ大変混雑するようになった。1860年の1年間で25万人が訪れたらしい。
 こうして、労働者階級にも余暇時間の活用が拡がり、近代旅行業の隆盛にも繫がっていく。

4.近代旅行業の創始者 トーマス・クック

(1)禁酒運動大会での団体旅行の大成功
 世界最初の英国旅行代理店トーマス・クック社の創業者トーマス・クック(1808~1892)はバプティスト派の宣教師として熱心に禁酒運動を推進していた。酒を飲むしか余暇の過ごし方を知らない労働者に「禁酒運動大会に参加することによって余暇時間を健全な娯楽で楽しんでもらいたい」とクックは考えていたのだ。
 そして、当時高額だった鉄道の運賃を鉄道会社に割引させる方法として、大人数の乗客をまとめて同じ列車に乗せることを思いつく。つまり団体割引の適用だ。さっそく運賃の価格交渉をすると、1841年開催の禁酒運動大会に行くための列車が「11マイル(18km)の往復運賃を食事・娯楽込みで1シリング」という破格な条件で設定できた。
 クックは自ら「禁酒運動大会参加旅行」の宣伝、切符の販売、食事の手配、アトラクションなどの準備を整えて参加者を募集すると、バプティスト信徒の申し込みが殺到した。570名にものぼった参加者は禁酒運動大会で一日思う存分音楽やダンスなど娯楽を満喫し、企画は大成功となった。素晴らしいクックの企画力と行動力である。ちなみに団体旅行を組成するのは、クックにとってはあくまでボランティアの一環であり、無報酬で請け負ったらしい。

(2)ロンドン万国博覧会でのパック旅行の成功
 さらにクックの名前が有名になったのは、1851年のロンドン万国博覧会の時であった。「世界の工場」として大英帝国の国威を示すために、ハイドパークで開催された国際的祭典である。新聞や大衆向け娯楽雑誌も万博熱をあおっていたので、会期140日間に延べ600万人もの入場者を集めた。ちなみに金曜日の入場料は2シリング半、土曜日は5シリングと高かったが、月曜から木曜の平日は1シリングと大衆価格に設定されていた。これに目を付けたクックは、博覧会用の旅行パック商品を企画・販売して、地方から16万5000人の入場者を送り込むという快挙を成し遂げた。
 その後、クックは国内旅行だけでなく、海外旅行にも事業を拡大し、「団体旅行だと安く行ける」という考え方を一気に世の中に拡げ、観光の大衆化を成し遂げた。そのうえ、旅行に関連するガイドブック、鉄道の時刻表、旅行雑誌の発刊やホテルクーポン、トラベラーズチェックの発行などを行い、クックは旅行業を一大産業に押し上げたのである。
 残念ながら、昨年2019年9月にトーマス・クック社はデジタル化などの時代の流れに対応できず、業績悪化で破産した。帰国できなくなったツアー中の旅行者15万人を帰還させるため、英国政府が「マッターホルン作戦」を実施したニュースはまだ記憶に新しいところである。
 コロナ禍の中で、在宅勤務などのテレワークが脚光を浴びている。多くの会社が、「従業員の職場と住居が同じ」という産業革命前の職住一体・近接のスタイルを取り入れようとしている。英国産業革命を機に労働者が職住一体・近接から職住分離へ移行してきたことを考えると、今回の職住一体・近接への移行は産業革命前に逆行するようにも見える。しかしながら、現在の在宅勤務を実現可能としているのは、インターネットや情報処理技術の進歩など最新の技術革新のおかげだ。
 余暇時間の活用においても、コロナ禍で海外旅行もままならない状況ではVR(仮想現実)やAR(拡張現実)による旅行の疑似体験を楽しむようになり、レジャーの考え方も変わってくるかもしれない。
 英国の産業革命においても、「技術革新」だけでなく、コレラなどの「疫病の流行」が社会に大きく影響し、当時の人々の価値観や意識が変わっていった。われわれが今直面する「コロナ禍」という災厄と「AI、IoT、デジタル革新を中心とする第4次産業革命の技術」とが合わさって、これからわれわれの価値観や意識がどのように変わっていくのだろうか。
 次回は、産業革命当時における住民の生活ぶり、特に食生活に焦点を当てる。

 

AI時代からの考察:「18世紀の英国で産業革命が起きた訳とは」[第7回]~2020年8月号

 明治の初め、新しい日本と自らの前途に不安を抱いていた多くの青少年に希望の光明を与えた二大啓蒙書がある。
 一つは有名な福沢諭吉の「学問のすすめ」(明治5年)だ。
 もう一つは「西国立志編」(明治4年)であり、百万部以上売れたらしい。原典はサミュエル・スマイルズの「自助論」で、さまざまな階層での成功者の実例を多数挙げて集大成したものだ。1859年に英国で発刊されベストセラーとなり世界十数カ国語に翻訳された。日本では、英国留学を終えて帰国した中村正直が翻訳した。
 この「自助論」に先立ってスマイルズが執筆したのが「スティーヴンソン伝」だ。炭鉱夫から「鉄道の父」となる成功譚が人気を得たことで自信をもち、「自助論」の執筆となったそうだ。今回はスティーヴンソンの生涯を辿る。

1.仕事をしながら炭鉱の技術習得へ

(1)8歳から生活費稼ぎ
ジョージ・スティーヴンソン  ジョージ・スティーヴンソン(1781~1848)はイングランド北部のノーサンバーランドのウィラムで4男2女の次男として生まれた。ウィラム炭鉱で揚水工として働く父親の賃金では家が貧しく、彼は学校へ行くことが叶わず8歳から炭鉱で働き始める。といっても石炭から異物となる石などを取り除く「ピッカー」という仕事で1日僅かな手当であった。少しでも条件の良い職を求めて頻繁に働き場所を変え、17歳の時ウォーター・ロウ炭鉱で「最新の蒸気機関の作業員」(排水機関の機関士)に採用される。そこでの仕事ぶりが認められ、同じ炭鉱で働く父親より手当が多くなってしまう。しかし、読み書きができなかったので、18歳から夜学で読み書きと算術の勉強を始める。
 貧乏で学校に行けなかったので、あらゆる機会を利用して知識習得に努力するのだが、地元のノーサンブリア訛りが終生抜けず、論理的な説明は不得手であった。書くのもずっと苦手で、手紙の文章は息子か秘書に任せていたらしい。

(2)20歳で結婚、長男ロバート誕生
  1801年に20歳でドーリー炭鉱へ移り、巻揚げ機の操作と保守を担当する「制動手」になると賃金も週1ポンドに上がる。そして富裕な農場経営者の娘エリザベスと恋に落ちるが、炭鉱夫に娘はやれないと彼女の父親から反対され結婚を諦める。次に炭鉱の宿舎で賄いをしていたアンに求婚するが、失恋。結局自分より13歳年上のアンの姉フランシスと結婚する。結婚までの紆余曲折はあったが、妻フランシスとの生活は幸せで1803年に息子のロバートが生まれた。
 その頃、趣味であった時計や靴の修理を副業にする。機械いじりの才能があったのか、特に時計の修理には定評があった。1804年にキリングワースへ移りウェスト・ムア炭鉱の制動手となる。

2.不幸にめげず技術者としての才能開花へ

(1)試練の時 家族の死と父の失明
 1805年に生後間もない長女を亡くし、翌年には妻のフランシスが肺結核で死去した。3歳の息子ロバートの世話は未婚の妹エリーナに頼るしかなかった。
 そんな時に自身の父親が炭鉱のボイラー事故で失明してしまい、仕事ができなくなる。さらに彼が命じられた対仏戦争の兵役を他の人に代わってもらうために大金を投じたことや、面倒を見ることになった父親の借金清算もあり、貯金を使い果たしてしまう。途方に暮れ、一時は北米への移住を検討するが、一人息子の将来とこれまで築いた機械工の経歴を大事に考えて思いとどまる。そして、蒸気機関の建造技術を懸命に磨くために、炭鉱で機械を止めている毎週土曜日に蒸気機関の分解組み立てを繰り返した。

(2)貪欲な技術の修得意欲とチャンス到来
 1811年、グランド・アライアンス社は炭鉱にニューコメン式蒸気機関を新規に設置したが、故障を繰り返した。誰も修理できず、頭を抱えた会社は報奨金10ポンドで改善策を募った。スティーヴンソンが必死に磨いてきた技術力を発揮するチャンスが到来する。
 故障の原因を冷水の噴射装置の不備と見抜いたスティーヴンソンが見事に蒸気機関を修理したので、喜んだ会社は彼に報奨金を与えただけでなく、会社が多数保有する鉱山すべての機械設備の責任者に任命した。彼の収入は年間100ポンドの高給となり、遠距離出張用の馬も贈呈されたらしい。技術者スティーヴンソンの誕生である。

3.蒸気機関車建造への挑戦

(1)第1号蒸気機関「ブリュッヘル号」
 スティーヴンソンはその後も自らの技術をさらに磨き、固定式蒸気機関などの製作を始めた。そして、トレヴィシックなどの蒸気機関車に刺激されて、いよいよ蒸気機関車の製作に入る。製作に必要な資金は会社のリデル准男爵やレーブンズワース卿など資産家が支援してくれた。
 自宅近くのウェスト・ムア炭鉱の作業所で、仕事の合間を縫って蒸気機関車の製作を開始し、彼にとって第1号となる蒸気機関車「ブリュッヘル号」を1814年に完成する。
 翌年に「ブリュッヘル号」は、キリングワースの軌道を総重量約30tとなる貨車を引いて平均時速約6kmで走行した。従来のトレヴィシック型に比べると牽引力が弱かったが、実用性、経済性においては問題なかった。彼はその後も懸命に改良を重ねて騒音や圧力不足という課題を解決し、石炭輸送目的の蒸気機関車を数台製造した。

(2)息子ロバートへの教育投資
 無学で苦労したスティーヴンソンは、息子ロバートにはしっかりとした教育を受けさせたいと考えて、ロバートが12歳になった時、ニューキャッスルの名門カレッジ「パーシー・ストリート・アカデミー」に入学させた。労働者階級の彼にとって、中産階級が通う有名校は高嶺の花であったが、息子のためと思って高い学費も何とか工面した。しかも、息子ロバートが学校から帰宅すると、その日習ったことを親子で長時間復習していたらしい。スティーヴンソンは学校の授業を息子となぞることで、自分に足りない知識を補っていたのだ。知識習得に対すジョージ・スティーヴンソン る彼の努力は尊敬に値する。
 愚鈍な印象を与える労働者階級特有の自分の訛りについて、スティーヴンソンは強い劣等感を抱いていたようだ。しかし、息子ロバートは名門校に行くことで、学問を習得するだけでなく、ノーサンブリア訛りが次第に取れていった。

4.ヘットン炭鉱軌道の成功と初恋の人との再婚

 1814年以降、多くの蒸気機関車の製造に関わったスティーヴンソンはヘットン炭鉱から石炭運搬用軌道13km敷設のために1819年に技師として招かれた。
 ヘットン炭鉱は英国で最大の出炭量がありながら、輸送コストが高いのがネックであった。輸送コスト改善のために、新たな軌道敷設が計画された。自走する蒸気機関車と急斜面用で車両を牽引する固定式蒸気機関を併用する方式で進められ、技師スティーヴンソンの主導のもとで完成まで2年を要した。当時の蒸気機関車のパワーでは急斜面を登ることができず、ケーブルカーのようにロープに繋いだ車両を固定式蒸気機関による巻揚げ機で牽引する必要があった。
 1822年の開通時には総重量84tの貨車17両をつないだ蒸気機関車が平均時速約6kmで走行した。その時の走行の様子は新聞で報じられ、スティーヴンソンの名前が世に知られるようになる。また、この軌道のおかげでヘットン炭鉱は生産性が高まり、炭鉱の業績は大きく改善したようだ。
 ちなみに、1820年にスティーヴンソンは再婚するのだが、なんと相手は父親の反対で諦めた初恋の人エリザベスであった。彼女は一途にスティーヴンソンのことを思って他の誰とも結婚せず未婚のままだったのだ。二人は結婚して幸せな家庭を築くが、子供には恵まれなかった。

5.ストックトン・ダーリントン鉄道

(1)運河派vs.馬車軌道派そして法案成立
 スティーヴンソンの知名度をさらに全国区にあげたのが、ストックトン~ダーリントン間での鉄道の建設だ。
 その頃、ダーラム南西部の炭鉱ダーリントンから東部にあるティーズ川河口の町ストックトンの40kmを結ぶ石炭運搬用の交通手段が検討されていた。当初は、当時主流であった運河での輸送が検討されたが、莫大な費用がかかるので計画が立ち消えとなっていた。その運河計画が1818年に再浮上するが、あわせて馬車軌道建設案も提示された。ストックトン側は運河建設の推進、ダーリントン側は馬車軌道の推進となって意見が分かれて対立するが、最終的には馬車軌道建設推進側が優勢となった。
 建設のためにストックトン・ダーリントン鉄道会社が設立され、鉄道建設の法案が議会に提出されるのだが、路線を通過する地主からの強力な反対によって法案は廃案となってしまう。しかし、会社設立メンバーの一人である実業家エドワード・ピーズが中心となって議会や地主対策に金も努力も惜しまず精力的に活動したおかげで、三度目の法案提出で無事成立の運びとなった。
 その直後にスティーヴンソンはピーズに自らの主任技師への採用を売り込みしたようだ。

(2)会社設立と蒸気機関車導入への計画変更
 当初は馬車や固定式蒸気機関を利用する計画であったが、蒸気機関車の導入を目論むピーズはヘットン炭鉱軌道で有名になったスティーヴンソンを主任技師に採用する。1821年にピーズがストックトン・ダーリントン鉄道会社の社長となり、会社の創立総会を開催すると、蒸気機関車を導入するためにさまざまな工作をおこない、開業直前に蒸気機関車を利用する計画へ変更することに成功する。
 計画変更により内容の早急な見直しが必要となったが、この鉄道の建設資金は主にピーズ社長をはじめとするクエーカー教徒の人脈からの出資によって賄われた。また、計画変更に伴う路線の測量にアカデミーを卒業したばかりの息子ロバートが加わっている。
 ロバートには1822年に化学や地質学などの習得のためエジンバラ大学の短期コースに入学させている。ここでも、大学入学はロバートのためだけでなく、アカデミーの時と同じようにスティーヴンソンが化学や地質学の知識を習得する狙いもあった。大学で習ったことを親子で毎日貪欲に復習していたのだろう。こうした不断の努力が実って鉄道事業にも役立つことになる。
 また、工事が開始されると、スティーヴンソンはこの路線のレールの形状や蒸気機関車走行の安全面を配慮して路線の3分の2には鋳鉄より頑丈な錬鉄製レールを、そして残りの部分は鋳鉄製レールを採用することに決定した。

(3)蒸気機関車製造会社の設立と鉄道開業
ロコモーション1号  蒸気機関車の製造が近い将来一大産業になると読んだスティーヴンソンは、1823年に蒸気機関車製造の専門会社「ロバート・スティーヴンソン社」を設立する。そして、翌年には、ストックトン・ダーリントン鉄道会社から蒸気機関車2両を受注した。
 1825年にストックトン・ダーリントン鉄道の開通式がおこなわれ、終点のストックトンには4万人もの人が集まった。これまでにない大規模な公共交通鉄道であり、新聞にも大きく取り上げられた。「ロバート・スティーヴンソン社」が製造した重量8tの「ロコモーション1号」は約300人を乗せた客車26両と石炭を積んだ貨車12両を引いて時速19~26kmで走行した。最高速度は39kmに達したが、急勾配では依然としてパワー不足の蒸気機関車を補う固定式蒸気機関による牽引力が必要であった。
 この鉄道は乗客も乗せたが、あくまで石炭輸送など貨物輸送が中心であり、開業後しばらくは石炭輸送が収入の9割を占めた。
 また、この鉄道ではスティーヴンソンが軌間1435mmの錬鉄製のレールを採用したが、この1435mmのサイズがその後、世界の標準軌道間となる。
 スティーヴンソンは、この鉄道の成功で全国的に知名度が上がり、各地の鉄道建設計画への助言者として引っ張りだことなった。

6.リヴァプール・マンチェスター鉄道

(1)産業革命の進展に対応できない物流手段
 19世紀当時、産業革命の中心地マンチェスターは綿繊維や機械工業の一大集積地を形成し、港湾都市リヴァプールはロンドンに次ぐ代表的な港湾都市となっていた。
 産業革命の進展とともに物流量が急増して、従来の運河・河川・ターンパイク(有料道路)だけでは輸送をカバーできなくなっていた。しかも両市を結ぶ従来の貨物輸送手段は運賃が高い割に輸送スピードが遅かった。特に河川や運河を利用する水上輸送は、夏の渇水、冬の凍結の場合には運航不能となる欠点があった。

(2)鉄道会社の設立と鉄道建設計画の難航
 商工業者は不便で値段の高い既存の輸送業者に不満をもち、考え出したのがリヴァプール・マンチェスター鉄道計画であった。
 1824年に設立されたリヴァプール・マンチェスター鉄道会社から主任技師に招聘されると、スティーヴンソンはその役職への就任を受託した。ちょうどその頃は、ストックトン・ダーリントン鉄道が完成間近で、そこの主任技師であるスティーヴンソンは多忙であったにもかかわらず、全国的に知名度が上がった自分に白羽の矢が立ったことからリヴァプール・マンチェスター鉄道会社の主任技師を掛け持ちした。
 その頃でも依然として、世の中の蒸気機関車への理解は低く、地主や農場主は煙突が発する火の粉の火災や騒音による家畜への健康被害を心配していた。そのため、路線の農場経営者や地主の激しい反対運動にあい、1825年に鉄道建設の法案は却下されてしまう。会社側は法案が却下されたことをス ティーヴンソンの責任とした。ノーサンブリア訛りのスティーヴンソンの拙い答弁能力では議会での厳しい質問の応酬に耐えられなかったと判断したのだ。階級意識の強い英国ではスティーヴンソンに対して労働階級出身の野卑な人物という差別意識も根底にあったようだ。この結果、スティーヴンソンは主任技師を解任されてしまう。

(3)法案再挑戦と主任技師への返り咲き
 二度目の法案を通すため、会社は父親の高名さを見込んで、多くの運河・橋の建設で名を馳せた土木技師の子息レニー兄弟を主任技師に招くことにする。この兄弟は鉄道の専門家ではなかったが、彼らの父親の知名度の高さは効果があったようだ。鉄道推進派の綿密な法案への準備と関係者への根回しもあり、無事に法案が通過した。
 1826年にリヴァプール・マンチェスター鉄道会社の第1回の株主総会を開催し、スティーヴンソンを再び主任技師に戻すことにした。議会対策のため、やむなくレニー兄弟を主任技師にしたが、鉄道建設には、叩き上げの実務家である彼の力が必要であると会社は考えていたのだ。スティーヴンソンは期待通り、建設にあたっての難関を解決していく。
 まず、工事の難航が予想された湿地帯でのレール設置。「チャットモース」と呼ばれる湿地帯は試行錯誤の連続であったが、膨大な量の木材などを束ねた上に石や土を投入して路床を固めることで最終的には成功した。蒸気機関車が安定走行するには、路線を出来るだけ水平に建設することが望ましいので、3つのトンネルと46の橋梁も建設した。
 工事の進展とともに、工事費が嵩み、資金不足が明らかとなるが、大蔵省からの借入や追加増資により無事資金調達する。増資については株主からの絶大な支持を得て、ほぼ全額引き受けられた。
 こうして軌道の建設は幾つもの難関を乗り越えて順調に進んだ。

(4)レイトンヒル公開競争でロケット号勝利
ロケット号  傾斜地では蒸気機関車がパワー不足になりがちなので、従来から固定式蒸気機関の牽引力をケーブルカーのように利用していた。この鉄道についても、一部の技術者の中から、部分的に固定式蒸気機関を動力に採用すべきとの意見が出る。蒸気機関車の性能に自信のあるスティーヴンソンは蒸気機関車のみの採用を強く主張する。
 鉄道会社の社内でも意見が分かれ、どちらを採用するか決定するために、500ポンドの懸賞金を付けて一般公開競争を開催する。公開競争では機関車の時速、エンジンの重量、建造費など競争の条件を定めて、参加する蒸気機関車を公募した。
 1829年のレイトンヒルでの公開競争には4社の蒸気機関車が参加する。「ロバート・スティーヴンソン社」は、息子ロバートが中心となって製造した蒸気機関車「ロケット号」を出場させた。「ロケット号」は強力なライバルを物ともせず、指定平均時速16kmを上回る19kmで往復約6時間かけて走行し、完勝するのであった。その快走を見た蒸気機関車の反対派が「ロケット号」の性能に感動して、蒸気機関車推進派に回ることになったそうだ。

(5)鉄道開業と世界初の鉄道死亡事故
 1830年にリヴァプール・マンチェスター鉄道は8両の蒸気機関車を所有して営業を始める。鉄道時代の幕開けである。
 開業式には首相のウエリントン公爵をはじめ、著名人が多数参列した。その開業式でハスキンソン商務大臣が蒸気機関車に轢かれて事故死するという不幸な事件が起きる。乗客たちは給水と給炭のために停車していた車両から下車して、危険と警告されていたにもかかわらず反対側のレールの上で休憩していた。そのうち反対側の線路に近づいてきた別の機関車に気付くのが遅く逃げ遅れたハスキンソンは蒸気機関車に轢かれて死亡してしまったのだ。
 不幸な死亡事故はあったが、開業後の鉄道事業は順調に推移する。リヴァプール~マンチェスター間での仕事は日帰りで済ませることが可能となって、鉄道会社にとって輸送時間、輸送コストとも半分となった。鉄道は従来の貨物輸送中心から乗客輸送へ移行することになる。1831年の時点で乗客による収入が全体の65%を占めた。リヴァプール・マンチェスター鉄道は経営的にも成功して株主に高い配当が出せるようになった。

(6)大量かつ高速の乗客輸送で鉄道ブームへ
 この鉄道は高速で大量の乗客を運ぶという新たな市場を切り開き、その後の鉄道ブームに繋がる。
 その後二人目の妻エリザベスが1845年に死去すると、スティーヴンソンは64歳で現役を引退する。それまで海外を含め、あらゆる鉄道計画に関与した。1848年に67歳で三度目の結婚をするのだが、その年に自宅で肋膜炎のため死亡した。
 スティーヴンソンの一生を眺めてみると、かなりの勉強家、忍耐強い努力家であったことが分かる。彼をサポートした息子ロバートの存在も大きい。鉄道建設には地元の支援、幅広い資金調達、優れた技術陣の3つが必要と言われるが、それらに対応する才覚も備えていたようだ。
 炭鉱夫から苦心の末に鉄道の父となったスティーヴンソンの生涯をもとに執筆されたスマイルズの「自助論」の精神、すなわち「どんな階層の者でも自助・勤勉・忍耐さえすれば成功への道が開かれており、社会の発展に貢献できるのだ」という内容が万民に受け入れられたのも頷ける。
 次回は、鉄道網の進展で変化したライフスタイルに触れたい。

追記:炭鉱用安全ランプの発明と屈辱

 炭鉱では掘削の過程で炭化水素系の可燃性ガスが発生し坑内に漏れ出すことがある。そのガスに暗い坑内を照らすために持ち込んだランプの火が引火して爆発する事故が頻繁に起きていた。
 そのガス対策として、英国を代表する科学者ハンフリー・デーヴィーとスティーヴンソンが偶然にも同じ1815年に鉱山の安全灯を発明した。
 デーヴィーの安全灯はランプの芯の周りに鉄製の細かい金網をめぐらせたもの。そしてスティーヴンソンのものは多数の穴の開いた金属製の筒をランプの芯の周りに用いたものであるが、基本構造は双方同じであった。万一ガスが発生して、ランプの火が引火しても鉄の金網が火炎の熱を吸収するとともに、火炎は金網の小さい穴から金網の外へは出ていかず、外のガスには引火しない仕組みらしい。
 科学知識を活かした者と経験から発想した者の違いであったが、デーヴィーは「スティーヴンソンのような無学な人間に発明できるはずがない。私のアイデアを盗用したのだ」とスティーヴンソンを告発する。数年後にスティーヴンソンの盗用疑惑が晴れても、デーヴィーは死ぬまで納得しなかったらしい。
 この発明では、感謝した鉱山主がデーヴィーにお礼として2000ポンドを贈呈したが、スティーヴンソンには105ポンドしか贈呈されなかった。それを不憫に思った鉱山会社や仲間がお金を募って彼に1000ポンドを贈呈している。
 経験から仕組みを理解したスティーヴンソンにとって、デーヴィーによる盗用の告発は屈辱的だったと思われる。こうした事件もあって、一層自ら勉学に励み、息子への教育熱が高まったのかもしれない。

 

AI時代からの考察:「18世紀の英国で産業革命が起きた訳とは」[第6回]~2020年7月号

 日本では明治5(1872)年に新橋~横浜間で鉄道が開業した。当時の明治政府は鉄道発祥の英国から技術導入や資金調達をおこなった。日本の技術水準では自力製造できなかったので、英国人の鉄道技師エドモンド・モレルを招聘のうえ、英国製の車両を投入するなど全面的に英国の技術力に依存したのである。
 今回は、その英国において蒸気機関が鉄道など輸送分野に広まっていくまでの過程を辿る。

1.輸送手段の変遷
(1)人・馬・運河・ワゴンウェイ
 17世紀までは人や馬が直接荷物を担ぐ運搬方法が一般的であったが、未整備の陸路では輸送量に限界があり、壊れやすい物を安全に運ぶことが難しかった。特に鉱山では重量のある石炭などを運搬するので、大きな負担となっていた。そこに石炭を運ぶ新しい輸送手段として、ワゴンウェイ(貨物軌道)が生まれ、イングランド中に普及する。ワゴンウェイとは木製レールの上を馬が牽引して運搬する手押し車だ。馬1頭で7両の貨車(6t以上)が牽引可能となり、経費と時間は節約された。しかし、木製のレールは耐久性がなく1~2年で交換を要した。1738年にようやく鋳鉄を一部利用したレールが登場し、1750年代頃になると鋳鉄板を取り付けたレールが一般化して運搬できる量がさらに増大した。
 また、1759年にブリッジウォーター卿によって建設された初めての近代的な運河が商業的に成功する。それを機として全国に運河網が拡がっていく。運河も重量のあるものを安全に運ぶのに適していたのだ。こうして従来からの陸路や河川に加えてワゴンウェイや運河などの交通網が発達した。

(2)世界初の公共馬車鉄道と馬の値段の高騰
 1803年に世界最初の馬車鉄道会社である「サリー鉄道」が誕生する。鉱山の輸送に活躍したレールが道路にも設置され、公共の輸送手段として利用されるようになったのである。一般の利用者から利用料を徴収して貨物のみを輸送するものだ。レールを敷設することで運搬の大敵である振動を抑えることができた。クロイドン~ワンズワース間の約9.5マイルを1頭の馬が4両の貨車を引いていたらしい。
 サリー鉄道の開通と同じ1803年にナポレオン戦争が勃発する。軍役で数百万頭の馬が必要となったことで、馬の利用コストが急激に上がり、馬の代わりとなる動力が必要となってくる。それにより蒸気機関車への開発ニーズが高まったのである。ジェームズ・ワットの蒸気機関の特許が1800年に失効して、新たな開発に遠慮なく取り組める環境となったこともあり、さまざまな発明家がこの分野に本格参入するようになる。
 その開発者のなかで1804年に軌道上を走る蒸気機関車を世界で初めて発明し、蒸気機関車の父と呼ばれたトレヴィシックの苦闘と挫折の生涯を取り上げる。

2.蒸気機関車の父 トレヴィシック
(1)生い立ち
 リチャード・トレヴィシック(1771~1833)はイングランド南西部コーンウォールで生まれた。
 身長188cmの大男で逞しい体躯の持ち主だったので「コーンウォールの巨人」と呼ばれたそうだ。
 彼の父親は鉱山の技術者として蒸気機関の導入と管理を担当していた。トレヴィシックは初等教育しか受けていなかったが、機械の知識が豊富な父親の影響でモノづくりに関しては抜群のセンスがあった。蒸気機関車を建造する才能に恵まれ、機械の効率性を向上させる数多くの技術革新をもたらすのであった。

(2)トレヴィシック親子とワットの特許妨害
 コーンウォール地区では、高圧蒸気機関の開発が急速に進んでいた。彼の父親は利用中のワット型機関を高圧蒸気機関に改良しようとしていたが、それを察知したジェームズ・ワットは高馬力の高圧蒸気機関は危険だとして開発を阻止しようとする。しかし、トレヴィシックは1795年に父親の支援も得て独自に高圧蒸気機関を製造する。当然、ワットと共同事業者のボールトンは特許権の侵害だとして彼に使用差し止めを請求したが、シリンダーの上下を逆にして作り直すことで特許に対抗したようだ。
 その後も、トレヴィシックは高圧蒸気機関の開発に取り組む中で、長きにわたってワットからの執拗な妨害に悩まされることになる。ワットは自分の特許に関わる新たな開発を常時監視し、特許侵害の訴訟や妨害工作に余念がなかったらしい。実際、多くの技術者がワットの強い妨害にあって蒸気機関の改良を断念していた。

3.蒸気自動車の製造と挫折
(1)蒸気自動車「パッフィング・デヴィル号」
 トレヴィシックは蒸気機関車に先立って蒸気自動車の開発に取り組む。その端緒となったのは、近所に住むウィリアム・マードックとの出会いだ。
 ワットに内緒で蒸気自動車を試作していたマードックから蒸気自動車の試作品を見せてもらったのだ。ちなみにマードック自身はボールトン・ワット商会の従業員だったので、ワットの猛反対に遭い蒸気自動車の開発を断念している。
 その後、トレヴィシックはワット型蒸気機関の5分の1サイズの小型化の開発に成功したことから、蒸気自動車の試作に取り組み、完成させる。その蒸気自動車を「パッフィング・デヴィル号」と名付けて、世界初となる蒸気自動車のデモンストレーションを開催した。1801年のクリスマスイブにカムボーンの道路で7、8人を乗車させて走らせた。ひとまず走行に成功するのだが、1週間後には車輪が轍にはまって蒸気自動車が転倒してしまった。そのうえ、過熱でボイラーの水が干上がったのに気付かず、蒸気自動車が火事になるというお粗末さだった。

(2)蒸気自動車「ロンドン蒸気車」
 1803年には2年前の「パッフィング・デヴィル号」では十分でなかった蒸気圧を改良した新たな蒸気自動車「ロンドン蒸気車」を製作する。この蒸気自動車は蒸気を噴き上げ、馬を怖がらせながらロンドンやその郊外の通りを順調に動き回ったのだが、結局は道路状況の悪さが災いして車台枠がねじれてしまった。また馬車よりコスト高で乗り心地も悪かったので、蒸気自動車は世間の興味を引かず、支援者たちの期待を裏切ることになる。
 これを機に道路を走る蒸気自動車からレールの上を走る蒸気機関車の開発に軸足を移すことになる。

4.高圧蒸気機関の特許取得と死亡事故
(1)高圧蒸気機関の特許取得
 若干時は遡るが、トレヴィシックは二度目の蒸気自動車が失敗する前年の1802年に「蒸気機関建造に関する改善方法と自走馬車とその他の目的に関する申請」という特許を取得している。特許を世の中に認めてもらうには実物を見せて納得させる必要があると考えた。そこで、すぐに高圧蒸気機関を製造し、性能の良さを立証したのである。完成した蒸気機関では毎分40回のピストン運動が可能となった。その性能が評価されて、同じ1802年にペナダレンで鉄工所を経営するサミュエル・ホムフレイから高圧蒸気機関の製造を受注する。そして出来上がった蒸気機関を貨車の台車に載せて蒸気機関車のように動かしてみせると、ホムフレイは感激してトレヴィシックの特許を買い取った。さらにホムフレイは鉄の運搬用として興味をもっていた蒸気機関車の開発支援も約束した。

(2)グリニッジの死亡事故とワットからの非難
 ところが、これから本格的に開発という時に事件が起きた。翌1803年にトレヴィシックがグリニッジに設置した固定式高圧蒸気機関のボイラーが爆発して、4人の死者を出すのだ。
 彼は原因を担当者の不注意による操作ミスとしたが、ワットとボールトンは高圧蒸気機関の危険性を裏付ける証拠として厳しく糾弾し、法律での規制を議会に提案した。ワットは自分の発明した蒸気機関が危険な代物と思われることを恐れていたのだ。実際、高圧蒸気機関は直接高圧の蒸気がボイラーに掛かるので、強度不足のボイラーでは耐え切れず爆発事故が多発した。その後、トレヴィシックは危険防止のために、ボイラーに2つの安全弁と水銀を利用した圧力計を設置したのだが、頑丈な鋼鉄製のボイラーが完成する19世紀後半まで危険なボイラーという悪評が続いた。

5.蒸気機関車の試作と挫折
(1)世界初の蒸気機関車「ペナダレン号」の賭け
ぺナタレンの蒸気機関車  ホムフレイの支援で蒸気機関車を開発していた1804年に面白い賭けがおこなわれた。「蒸気機関車推進派ホムフレイ」対「蒸気機関車反対派クローシェイ」の対決である。
 蒸気機関車を馬鹿にするクローシェイが「10tの鉄を載せて蒸気機関車がペナダレンからアベルカノンの約16㎞の距離を往復できるか」という賭けをホムフレイに仕掛ける。ホムフレイの命をうけたトレヴィシックは挑戦を受けて立った。現在の価値に換算すると10万ポンド近い大金を賭けた「ペナダレン号」の走行は1804年に実施され、大勢の群衆が集まった。自信満々のトレヴィシックは10tの鉄に加えて70人の人間をペナダレン号の5両の車両に乗せて最高時速8㎞で走行した。蒸気機関車がレールの上を走った世界初の記録となったのだが、当時の脆い鋳鉄のレールではこの重量に耐え切れなかった。途中で破損して走行不能となり、帰路は馬の助けを借りて戻る有様であった。しかし、この走行を評価したウィラム炭鉱の経営者クリストファー・ブラケットから第2号の蒸気機関車の製造依頼を受けることになる。

(2)「catch-me-who-can号」の公開と失敗
catch_me_who_can ロンドンでのデモンストレーションの様子  トレヴィシックは度重なる失敗に挫けることなく、動力伝達を歯車式から連結棒で駆動するロッド式に換えた第3号の蒸気機関車を1808年に製造した。そして広告と娯楽を兼ねた一般公開を思い付き、新聞に「蒸気機関車と競争」の見出しで広告を打った。「catch-me-who-can」(捕まえられるものなら、捕まえてごらん)という機知にとんだ機関車の名前はイベントの資金スポンサーであるギルバートの妹フィリッパが付けた。ロンドンで鋳鉄製のレールを円形に敷いて周りを高い塀で囲み、入場料1シリングで約2カ月間公開した。最高時速は19㎞に達し、蒸気機関車が馬より速いことは実際に立証できたのだが、相変わらず事故や爆発を怖がって蒸気機関車に乗る人はほとんどいなかった。ここでもまた鋳鉄製の脆いレールの破損によって蒸気機関車の脱線や転覆が起きて、たびたび走行が中断したらしい。

(3)その後のトレヴィシックの人生
 この一般公開が商業的に大赤字になった影響なのか、トレヴィシックはこれ以降蒸気機関車の開発への関心をなくしてしまう。腸チフスに罹ったことや、引退したワットからの嫌がらせに嫌気が差したことなどが原因とも言われている。その後、彼は1816年に単身で南米に行き一獲千金を狙って銀鉱山の開発に賭けるのだが失敗し、1827年に無一文となって英国に戻り、1833年に貧困のまま息を引き取った。
 彼の失敗の原因は回転のムラや歯車の破損など蒸気機関車本体の問題もあったが、蒸気機関車の重量に耐え切れない当時の鋳鉄製レールの脆さが大きく影響した。レールの問題が解決されるのは1820年代であり、その頃にようやく頑丈な錬鉄製レールが登場するのである。
 またトレヴィシックの蒸気機関車は当時として優れたものであったが、野心家でマイペースな彼には事業を成功するために周囲の人々の協力を取りまとめていくマネージメント能力が足りなかったようだ。

(4)トレヴィシックの孫たち
 余談だが、トレヴィシックの孫二人がお雇い外国人として明治期の日本の鉄道発展に貢献している。孫二人が技術者として別々に来日し、蒸気機関車の製造に携わった。ともに10年以上滞在し、日本人の妻を迎えている。一人は国産初の蒸気機関車AE形の製造に、もう一人は信越本線の横川~軽井沢間のアプト式鉄道(急勾配の線路を登り昇りするための鉄道)の導入に携わった。

6.英国鉄道の父 スティーヴンソンの登場
 英国では、トレヴィシックが開発を断念した後も蒸気機関車の開発は進み、蒸気機関車による鉄道網が発展するとそれまで隆盛を極めた馬車鉄道や運河が時代遅れとなっていく。
 ジョージ・スティーヴンソン(1781~1848)は1830年に蒸気機関車「ロケット号」を使用した世界初の公共交通「リヴァプール・マンチェスター鉄道」を開通させたことで有名であるが、技術者としては先行技術を集大成しただけで独創性はあまりなかったと言われる。しかし、彼の息子ロバートをはじめとした優れた技術者仲間の協力、地元の賛同、幅広い資金調達によって鉄道を作り上げた。スティーヴンソンはマネージメント能力に秀でていたのだろう。発想力豊かな技術者であったがマネージメント能力が足りなかったトレヴィシックとは対照的だ。
 次回はそのスティーヴンソンの生い立ちや鉄道会社設立までの苦闘を辿る。

 

AI時代からの考察:「18世紀の英国で産業革命が起きた訳とは」[第5回]~2020年6月号

 電気料金は消費した電力ワットによって計算されるが、このワットという単位は「蒸気機関の父」ジェームズ・ワットにちなんで1889年の英国学術協会第二回総会で名付けられたそうだ。1ワットとは毎秒1ジュールに等しいエネルギーを生じさせる仕事率であり、1ジュールとは100gのモノを1m持ち上げる位置エネルギーに相当する。100gはちょうどMサイズのミカン1個だと考えるとよい。ワットは元々電力だけでなくエネルギー全般に使用できる単位なのである。
 自動車のパワーを表す「馬力」も仕事率の単位であり、英国では1馬力=745.7ワットと定義される。1馬力は馬1頭が継続的に発揮できる力を示したものだが、この馬力を実測し制定したのもジェームズ・ワットである。ワットは蒸気機関の性能を同等の仕事量をこなす馬の数に換算して表示することを思いつくと動力測定装置を作り、馬に1分間作業をさせて仕事率を計測した。重さ175ポンド(約79㎏)の荷物を馬に引かせたところ1分間で188フィート(約57m)移動したので、ワットはその仕事量を1馬力と定義した。
 ワットにはさまざまな発明があるが、最大の功労は、従来の蒸気機関を改良し効率を大幅に向上させたことだ。その蒸気機関が工場の機械や鉄道・船などの輸送手段に利用され、近代産業都市形成の原動力となった。
 今回は、そこに至るまでの蒸気機関の発展の歴史を辿る。

1.炭鉱の強敵、水没対策
 1700年の英国では石炭業を主とした鉱業が中心産業であり、石炭の生産量ではヨーロッパの80%を産出し、生産額では59%を占めていた。英国には多数の炭鉱があり、炭鉱では坑内での出水が頭の痛い問題であった。鉱山の坑道や採掘箇所が湧出する地下水で水没し、閉山に至ったケースが多くあった。表層の石炭が掘り尽され更に深く掘り進むと、坑道が帯水層に達するため、四六時中湧出してくる地下水などの坑内水を坑道から汲みだすことが必要となる。投資している炭鉱主にとっては、坑内水の排水をいかに上手に処理するかが最大の関心事であり、褒賞金を出してまで必死に排水の新技術を求めていた。
 当時の対応策として利用できる動力は風車、水車、馬があったが、英国の天候条件では風車の利用は無理であった。水車も炭鉱の近くに恰好な川が必要であり、また季節によって変動する水量のため安定稼働が難しいという欠点があった。馬を動力とした巻上げ機の利用はとにかく費用が嵩み、ある鉱山では揚水のために50頭の馬が使われたという記録もある。しかも馬の巻上げ機は作業スペースが狭いと設置できず、深く掘り下げた鉱山には巻上げ機が十分機能しなかった。こうした状況の中で英国の石炭業における鉱山の排水のために、豊富な石炭を利用した蒸気機関が研究開発されることになる。

2.大気圧の利用 トマス・セイヴァリ
大気圧の利用  蒸気機関とは蒸気の圧力を利用して動力を得る機関であり、一般的にはボイラーからシリンダー内に高圧蒸気を導いて、その膨張によってピストンを動かすのだが、当初の発明では若干異なる。
 1698年に蒸気の技術を初めて実用化し、特許をとったのが、イングランド南西部生まれの海軍軍人トマス・セイヴァリ(1650~1715)である。炭鉱から排水するための最初の蒸気機関として有効期限1733年までの特許を得た。
 セイヴァリの機関では蒸気の強い圧力を直接利用するのではなく、あくまで真空状態を作り出すために蒸気を使った。真空状態とは通常の大気圧より低い気圧で満たされた空間であるが、真空状態と大気圧との圧力差をこの機関の動力源としている。この圧力差の力を示す身近な例としては「容器の中に熱湯を注いで蓋で密閉すると、冷却後容器の中は真空となり、蓋が吸い付いて取れなくなる」現象がある。大気圧は地球を取り巻く空気の層の重さであり、海面上での標準大気圧である1013hPaでは1㎡あたり約10tの空気の重さがある。大気圧の存在とその大きさを示すものとして、1655年にドイツのマクデブルグで実施された半球の実験が有名だ。その実験は、ぴったりと合わせた2つの直径約60cm半球の銅製容器を真空ポンプで球の中を真空状態にしたうえで、この2つの容器を引き離すものだ。左右各8頭の馬で引っ張って、ようやく容器を引き離せたらしい。
 セイヴァリの機関はボイラー付きサイホンのようなものであったが、炭鉱での揚水用の蒸気機関を試作して一応作動させた。しかし熱効率が悪いうえに取り扱いが複雑で故障が続出したため炭鉱ではほとんど利用されなかった。そのうえ、この機関には安全弁もなかったので金属同士の継ぎ目が蒸気圧に耐え切れずしばしば破裂して、ボイラーが爆発するような危険な代物だった。結局、セイヴァリの機関は鉱山には普及せず、ケンジントン宮やテムズ川近くの給水塔の揚水ポンプに使われただけで1705年に工房を閉じた。

3.圧力釜の活用 ドニ・パパン
圧力釜の利用  同時期にフランス出身のドニ・パパン(1647~1712)も同様な実験や試作をおこなっていた。
 パパンは医者だったが、力学への興味が断ち切れず、ベルサイユ宮殿で技師として風車を管理していた。1671年にその宮殿でパパンはオランダ人で数学と天文学で有名だったクリスティアーン・ホイヘンスと出会い、仕事振りを評価されて助手に採用される。そして、ホイヘンスから火薬を動力とした機関の開発を命じられるのであった。
 しかし、新教徒のパパンにとっては、カトリック教のフランスに住むことが不安だったので、1675年にホイヘンスの推薦状をもってロンドンに渡った。ロンドンで研究を続ける中でパパンは1679年に固い骨も柔らかくなる調理用の蒸気圧力釜を発明・実用化した。その際に、調理器の爆発を防ぐために発明した自動調節安全弁が蒸気圧の利用に繋がっていく。パパンは引き続きホイヘンスの命令にしたがって真空状態を作るために火薬の利用を研究していたが、実用化は困難であった。そこでパパンは「水が蒸気に変わる際、体積が千倍以上になる」現象に着目し、蒸気が凝結する際に発生する真空を動力機関に利用することを思いつく。しかし、蒸気の圧力を直接利用するというパパンの革新的な発想を支援してくれる資金提供者はなく、模型を作るお金にも事欠いた。また、当時は高温高圧の蒸気に耐えるような板金技術もないため、機関がバラバラに吹き飛ぶこともあり、実用化に手間取っていた。
 そこへパパンにとって衝撃的な出来事が起こる。パパンに先んじて1698年にセイヴァリが揚水する蒸気機関の特許を取得したのだ。しかし、1704年にパパンはセイヴァリの機関について「ピストンなしで蒸気を利用するので熱のロスが大きく、蒸気ボイラーを保護する安全弁もない」と指摘している。パパンはイングランドの王立協会から支援を得るためにセイヴァリの改良案を含めさまざまな発明の計画書を提出するが、ことごとく無視され1712年に失意のまま亡くなった。一方、セイヴァリは「パパンの機関はシリンダーとピストンの摩擦が過剰に高まるので作動しない」と容赦ない批判をした。そういうセイヴァリの機関も前述の通り、ほとんど使い物にならなかった。双方とも設計上の欠陥があったのである。

4.世界最初の実用熱機関 ニューコメン
世界最初の実用熱機関  前記の二人とほぼ同時期に蒸気機関に着目して、1700年頃から実験を開始したトマス・ニューコメン(1664~1729)が1712年に商業目的で本格的な機関をバーミンガム近郊の炭鉱で初めて建造した。そして、この機関によってイングランド中西部の炭鉱業が息を吹き返すことになる。ニューコメンはイングランド南西部の没落貴族の末裔で、金物商を営んでいたのだが、馬で水を汲み上げるのに大変な費用が掛かることを知り、蒸気機関の開発に着手した。ニューコメンはセイヴァリやパパンたち先人たちの技術の長所を機関に取り入れたうえで、巨大なボイラーとシリンダーを別個に設置した。
 当初の機関はシリンダーの外側から水を掛けて冷却する仕組みであったが、試作実験中の事故が怪我の功名となって直接冷水をシリンダー内に注入させる方法を発見する。この仕組みにより、費用は馬による水の汲み出しの1/6となり、効率性が格段に良くなった。しかも以前のものに比較して故障も少なく、安心して使えるようになる。ニューコメンの機関はたちまち評判となり、ヨーロッパ中の各地の鉱山で利用され、改良型は20世紀初めまで実際に使われたらしい。しかし、揚水用の用途以外には拡がらなかった。また、ニューコメンにとって不運だったのは、セイヴァリの特許の有効期限が1733年だったので、セイヴァリと提携するしかなかったことだ。

5.分離凝縮器と回転運動式蒸気機関 ワット
回転運動  汎用的な蒸気機関の登場は18世紀後半となる。
 ジェームズ・ワット(1736~1819)はスコットランドの船大工の家に生まれた。計測機器の製造技術をロンドンで学んだあと、グラスゴー大学で科学機器製造業者として工房を開設し、1763年に大学にあったニューコメンの蒸気機関の修理を担当する。修理の過程でこの機関のさまざまな欠陥に気付き、特に効率の悪さに驚く。ワットはブラック教授のアドバイスから燃料のロスの原因は「一つのシリンダーの中で熱い蒸気と冷たい水の双方を扱う」ことだと突き止めて、解決策として冷却器を別に設置することを考案した。排気された蒸気の冷却を専門とする冷却器を置くことで、シリンダーは高温蒸気扱い専用となり、機関の効率性が格段に向上した。この冷却器がワットの名前を不朽のものにした分離凝縮器である。1769年に特許を取得して蒸気機関の実地製作に取り掛かるが、技術水準が低く、なかなか実効が上がらなかった。そのうえ資金援助者である英国の工業家ローバックが1770年に破産して開発の一時中断を余儀なくされたが、バーミンガムの企業家ボールトンの積極的な援助を新たに得たことで開発に専念して技術的問題を解消する。
 また、有効期限の迫っていたワットの特許が議会の承認を得て1800年までの25年間延長されたことを機に、ワットとボールトンは1775年に蒸気機関の共同事業を始める。効率性が高くても高価で維持管理が面倒なワットの機関は当初売れなかった。それに対してニューコメンの揚水用の蒸気機関は安価で取扱いが簡単なので人気があり、また炭鉱の利用では価値のない炭屑を燃料に使えるので燃料の効率を気に掛ける必要がなかった。
 そこでワットはコーンウォール地方の鉱山に狙いをつけて売り込みを掛けたところ、1776年に自身が設計した揚水用の蒸気機関で高評価を得る。この地方の鉱山で採用された理由は、銅や錫の鉱山なので炭屑がなく、燃料の石炭消費量を節減するニーズが高かったことと、深く掘られた鉱山なのでニューコメンの機関では揚水する能力が不足していたからだ。ワットの機関の石炭消費はニューコメンのほぼ1/4だったので、コーンウォール地方では順次ワットの揚水機に切り替えられて、1777~1801年のあいだに49台が設置された。
 その頃、ワットはボールトンから回転運動の蒸気機関の開発を要請されて、1781年に上下運動を回転運動に転換する仕組みの特許を取得した。回転運動式蒸気機関は強い糸を紡ぐ必要のある綿工業で需要が大きく、1785年に初めて綿工場に機械の動力用として設置された。その後、大量生産を可能にしたミュール紡績機への導入でワットの機関は一気に揚水以外に販路を拡大していく。1800年の特許期限までにワットの蒸気機関は国内のさまざまな業界向けに約450台製造されたらしい。
 こうして、回転運動式蒸気機関に至るまでの経緯を見ると、偉人が画期的な発明をする伝記のような話は実際には存在せず、さまざまな人々の努力が繋がって実用化されていくことが分かる。また蒸気機関が英国で発明されたのは、豊富な石炭と主要産業である鉱山業の存在が大きく関係している。
 次回は英国鉄道の父スティーヴンソンを中心に蒸気機関が輸送分野に広まっていく過程を辿る。
 

 

AI時代からの考察:「18世紀の英国で産業革命が起きた訳とは」[第4回]~2020年5月号

 英国産業革命の全盛期であるビクトリア朝(1837~1901年)時代にロンドンは冬に濃い霧が発生することから「霧の都」と呼ばれた。
 当時、文部省から国費留学生として英国に派遣されていた明治の文豪、夏目漱石はロンドンでの出来事を次のように日記に記している。
 「倫敦の街を散歩して試みに痰を吐きて見よ。真っ黒なる塊の出るに驚くべし。何百万の市民はこの煤煙とこの塵埃を吸収して毎日彼らの肺臓を染めつつあるなり。我ながら鼻をかみ、痰をするときは気のひけるほど気味悪きなり」(1901.1.4)
 ロンドンの霧の正体は暖炉や蒸気機関車などの石炭の煙が濃霧と混じりあったものであった。痰が真っ黒な塊になるほど当時の大気汚染は酷かったのだ。1905年にはこの黒い霧を通常の白い霧と区別するために、smokeとfogを合成してsmog(スモッグ)と呼ぶ申し合わせをしている。
 この英国の大気汚染は、産業革命の工業化によって初めて発生したのではなく、実はそれ以前からすでに英国に発生していた。薪や木炭のもとになる森林が早くに枯渇した英国は、安価な石炭を燃料として利用していたのである(木炭とは薪から水分と不純物を取り除いて炭素含有量を高くしたもの)。
 石炭を原料とする蒸気機関の歴史を辿る前に、今回は英国で大量の石炭を利用するに至った歴史を探る。

1.ローマ時代における豊かな森林の消失
 英国は、紀元前1世紀半ばから紀元4世紀にわたってローマ帝国の植民地であった。当時は国土の大半が森林に覆われていたので、ローマ人が森を切り開いて農地にするとともに豊富な鉄鉱石と樹木を利用して鉄の生産拠点にもなっていた。樹木が伐採されて、英国南部の森林はかなり減少したのだが、ローマ帝国の滅亡後には森林はある程度蘇生する。しかし、後進国であった英国の主要産物は木材であり、14世紀には木材の輸出が隆盛となって樹木の減少はとまらなかった。

2.国内産業の発達で森林枯渇
 16世紀に入ると、英国では国内産業の発達や木造船の建造などで木材をさらに大量に消費し、森林枯渇を加速させた。
(1)製鉄をはじめとした国内産業の発達
 鉄鉱石が国内に豊富にありながら、16世紀初めの英国の簡単な炉では大砲などの兵器製造は技術的に困難だった。他のヨーロッパ諸国よりも英国は産業面で立ち遅れていたのだ。
 その後、ヘンリー8世(在位1509〜47)は自身の離婚問題から英国にイングランド国教会を独自に成立させたために、ローマ・カトリック教会との関係が悪くなった。そのことで外国からの侵略を警戒して早急に大砲や鉄砲などの鉄の兵器を国内生産する必要が生じた。1543年には欧州大陸から強力な燃焼力をもつ高炉を導入して、英国は鉄の鋳造大砲の製作に成功した。生産拠点はイングランド南部のサセックスにあるウィールド地方の森の中であり、鉄鉱石の鉱脈と燃料に最適なナラの木がふんだんにあった。新たに導入した高炉法のおかげで鉄の大量生産が可能となったのだが、同時に大量に木材燃料を消費するようになった。
 また、エリザベス1世(在位1558〜1603)時代には財政赤字対策として、国内産業育成に力を入れたので、銅の精錬、塩、ガラス、鉛といった産業が発達するのだが、これらはどれも木材燃料を大量に必要とした。
(2)木造船の建造ラッシュ
 海洋大国スペインとの対立で多くの木造艦船が建造された。ちなみに全幅17m、全長61mの平均的な大きさの戦列艦1隻の建造には約2500本もの巨大ナラを伐採したらしい。また、100t以上の大型の商船でも1577年の135隻から1592年の177隻に増えたという。これだけ建造されて、木材が伐採されれば森林が枯渇していくのも頷ける。しかも、樹木が切られた後の土地はそのまま牧草地や耕地にされて、あまり植樹されなかったようだ。
 16世紀頃には、英国では森林枯渇が深刻化して、もはや熱源を樹木に依存できる状態ではなくなった。基幹産業となった鉄の製造においても、17世紀後半から18世紀にかけて深刻な木炭不足の影響で、鉄の製造が停滞した。

3.一般家庭も石炭の利用へ
 英国では、昔から鍛冶屋、石鹸職人、石灰職人、製塩業者などが、薪の代わりに豊富で安価な石炭を利用していた。しかし、国内で入手可能なミッドランド産の石炭は鼻を突く煙と硫黄のような悪臭で忌み嫌われていた。そのため、1306年に王室布告で職人が炉で石炭を焚くことを禁止したりもするのだが、森林枯渇で状況は変化する。
 一方、一般家庭では暖炉に薪を使用していたのだが、薪の値段が上がって石炭の利用を強いられることになる。薪の価格上昇には前述の森林枯渇の要因だけでなく、人口が急増したことも影響している。イングランド全体では人口が1500年〜1600年で325万人から407万人に急増しており、人口増加の分だけ木材燃料の需要が増加したのだ。
 その結果、15世紀には石炭と薪は熱量エネルギーで見ると、ほぼ同じ価格であったものが、16世紀終わりには薪の価格が石炭価格の2倍に上昇して、一般家庭には高嶺の花となった。やむなく、一般家庭でも値段の高い薪を諦めて、石炭用の暖炉と煙突を設置して安価な石炭を燃やし始めるようになったのである。
 英国の石炭の年間生産量を見てみると、1540年は約20万tであったものが、1650年には約150万t、1700年には約300万tと増加した。
 17世紀後半における英国の石炭生産量は全世界の約85%を占めたらしい。産業革命への本格突入前にすでに石炭の生産・消費が高水準にあり、その頃には石炭の煤煙で大気汚染はかなり進んでいたはずである。
  
4.コークスの発明で大気汚染はさらに悪化へ
 製鉄を除く諸工業では安価な石炭の利用が増加するのだが、製鉄では依然として高価な木炭を利用していた。それは、石炭に含まれる硫黄などの不純物が鉄を変質させるという問題があったからだ。その問題を解決したのが1709年にエイブラハム・ダービーが考案したコークス高炉法である。
 石炭を高温乾留(蒸し焼き)して生成したコークスを高炉の燃料とすることで、硫黄などの不純物を取り除くことに成功した。これで製鉄の最終工程の一部を除き石炭だけで対応可能となった。さらには1783年にヘンリー・コートのパドル法により、製鉄の全工程が石炭で対応できるようになり、同時に鉄の大量生産も可能になる。
 英国における鉄の生産高は1720年〜1788年の間で1万7350tから6万8300tに急増した。熱源ベースでは1720年の時点では100%木炭であったものが、1788年には約8割が石炭由来のコークスで生産されるようになった。
 こうした石炭需要の増加によって、1700年頃には一人当たりの石炭使用量が年0.5t程度だったものが、産業革命が始まった1800年には一人当たりの石炭使用量は1tに達し、夏目漱石が留学した1900年には年6tにも達したらしい。 石炭のおかげで英国の森林枯渇は免れたのだが、夏目漱石が嘆くような悲惨な大気汚染はさらに悪化の一途を辿るのであった。

5.蒸気機関による石炭利用
 さらに石炭需要増加に拍車をかけたのが蒸気機関である。18世紀後半に、ジェームズ・ワットの回転式蒸気機関が発明されたことで、英国は石炭を燃料とする蒸気機関と製鉄を原動力に19世紀にかけて本格的に産業革命に突入するのである。
 次回はその蒸気機関の歴史について触れたい。

 

AI時代からの考察:「18世紀の英国で産業革命が起きた訳とは」[第3回]~2020年3・4合併号

 第4次産業革命の最中にある現在、AI(人工知能)脅威論がニュースの話題でよく取り上げられる。このまま技術革新が進むと日本でも労働人口の49%がAIとロボットに仕事を奪われてしまうとの予測もある。今後どのようにAIとの共生を図っていくかが私たちの課題だが、英国の第一次産業革命においても同様な問題が発生していた。繊維工業、特に綿工業における技術革新によって飛躍的に機械の生産能力が高まった結果、深刻な失業問題が発生したのだ。非熟練工による大量生産が可能となったことで、零細な家内制工業は廃れて機械制工業が主流となると同時に、当時の熟練工や職工の置かれた状況も激変した。今回は産業革命期の繊維機械の変遷を辿る。

1.毛織物から綿織物へ−キャラコの大流行−
 15〜16世紀は国内の良質な羊毛により、毛織物工業は英国の国民的産業であった。当時は、家族労働による家内制工業が殆どであり、妻や子供が小さな糸車を使って糸を紡いで、夫が布を織っていた。
 17世紀に入るとインドの良質な綿花や綿布がイギリス東インド会社を通じて英国へ輸入された。輸入された綿布のうち、インド産の平織り綿布は輸出港の名前カリカットが訛ってキャラコと呼ばれた。キャラコは値段が安く、肌触り、吸湿性に優れ、洗濯も簡単であったため爆発的に流行した。それが面白くない毛織物業界は議会に働きかけて、1700年にはキャラコ輸入禁止法、1720年にはキャラコ使用禁止法を制定させた。入手困難となった綿織物だが、その人気はさらに過熱化して需要に供給が追い付かない状況であった。その需要に応えるためには、国内で綿織物を増産する新たな技術革新が必要となった。

2.飛び杼ひ−手織りの織布過程の高速化−
 1733年にまず発明されたのが英国人ジョン・ケイの「飛び杼」である。杼とは緯糸を巻いて収めるための容器のことだが、その杼を改良したものが飛び杼だ。この飛び杼は当初毛織物の生産に利用されたが、のちに綿織物の生産にも使われた。
 手織り機では経糸の間に杼(シャトル)を通して緯糸を入れる操作をするが、広幅の布の場合には二人の職工が左右で杼を受け渡すなど手間がかかった。この飛び杼を使うと、職工が織機の上部の紐を引くことで左右の送出器によって打ち出された杼が杼道上を往復する仕組みになっており、一人で広幅の布を短時間で織り上げることが可能となった。手動式の極めて単純な仕組みだが、この発明によって生産性は従来の2〜4倍になった。綿布の生産能力が上がったことで、原料となる綿糸が不足となり、今度は紡績の生産性向上が必要となった。

3.紡績機における技術革新
 紡績の技術革新として、まず登場したのが手織り工出身の英国人ハーグリーヴスによって1764年頃に発明された「ジェニー紡績機」であった。これまで糸を紡ぐには綿花から繊維を引っ張り出して、綿棒に巻き付かせる手作業を1本ずつおこなっており、手間がかかっていたが、この手動式機械の登場によって6本以上を同時に紡ぐことができるようになった。しかし、手動で紡ぐ糸は細くて切れやすかったので、緯糸に利用するしかなく、強度が必要な経糸には引き続き手紡車が使用された。このジェニー紡績機は小型だったので既存の家内制工業にも向いており、急速に普及した。
 次に経糸の問題を解決したのが「水力紡績機」だ。1771年に英国人床屋でかつら製造業者のアークライトによって発明され、ジェニー紡績機に比較すると技術的にかなりの進化が見られた。
 まずは経糸用の丈夫な糸が製造できるようになった。加えて、これまで馬であった動力源を水車による水力に替えたことや、糸の撚りと巻き取りを同時におこない連続作業を可能としたことによって、工場での大量生産が可能となった。しかも、職工の訓練もあまり必要でなくなった。一方で難点は、太い糸しか製造できないことであった。また、水力紡績には大掛かりな設備を要するので、それらを設置する工場が必要であり、しかも水力を利用するには、工場を町から離れた急勾配の渓谷などに設置する必要があった。アークライトはダーウェント川沿いのクロムフォード工場(イングランド中部ダービシャ州)に水力紡績機を設置したのだが、実際には季節による水量の変化に苦労したようだ このダーウェント川の工場群は産業革命初期のものとして2001年に世界遺産に指定された。

4.ミュール紡績機と力織機−大量生産へ−
 1779年にはジェニー紡績機と水力紡績機の長所を掛け合わせた「ミュール紡績機」が7年間におよぶ試作を経て英国人技術者クロンプトンによって発明された。このミュールの名称は英語のmuleすなわち雄ロバと雌馬との雑種であるラバに由来している。丈夫で細く、しかも安定した太さの糸が製造可能となったので、高級で人気の高い薄地の綿織物モスリン用の糸として使用されるようになる。 さらに1789年には蒸気機関を利用した改良型が完成した。これらの発明によって綿糸の生産が急激に増加して綿糸の供給が過剰となり、今度は逆に、綿織物の織るスピードが間に合わなくなった。
 そこで新たな織機として登場したのが、英国人牧師カートライトによって発明された「力織機」だ。1785年に馬を動力源として発明した力織機を1787年に蒸気機関利用に改良したことで生産能力が3.5倍になったと言われる。
 このように一つの技術革新による需給関係の変化が、新たなる技術革新を次々に引き起こした。そして1802年から1803年にかけて、綿織物は毛織物から英国輸出品ナンバーワンの地位を奪った。

5.ミュール革命の意義
 これまで述べた機械のうち、特にミュール紡績機の登場は、強くて細い良質な糸の生産を飛躍的に増大させて、インド製品の独占状態を打破したという意味で歴史的なインパクトが大きい。また、動力源が水力のものは渓谷など水を利用できる場所に工場を設置する必要があったが、蒸気機関を利用することで平地上の大都市に大工場を設置できるようになった。都市では、原料、石炭燃料、労働力などの調達が容易であったので、次々と工場が増えて綿織物の生産量が急増した。このことは1750年から1790年の間に綿花の輸入量が276万トンから3074万トンと11倍にも増加したことからも明らかである。
 そして、1820年代にはリチャード・ロバーツによる「自動ミュール紡績機」が発明される。これまでは、運転調整に熟練した成人男子一人が付きっ切りで作業するため同時に運転できるのは300錘足らずであったが、この自動化によって成人一人と子ども2〜3人で1600錘もの運転が可能となった。しかも、人間の作業は糸継ぎと機械トラブルの監視のみとなったので、紡績工場のさらなる大規模化が可能となった。

6.職工の反発
 一方で、技術革新を生んだ発明家たちの余生は決して人が羨むようなものとはならなかった。
 飛び杼を発明したジョン・ケイは1733年に特許を取得したが、この発明によって不要となった熟練工に恨みを買い、暴漢に襲われ、仕事場も壊された。その後、ケイはフランスに逃亡するが、織元が特許料を払わず生活的に困窮するなど、不遇な人生を送ったらしい。ジェニー紡績機を発明したハーグリーヴスも同じく職工に自宅を襲撃され、機械を壊されたのでノティンガムに引っ越した。1770年にハーグリーヴスはジェニー紡績機の特許を取得するのだが、結果的に特許料を得ることはできなかった。水力紡績機を発明したアークライトは、工場経営者、資本家として大成功を収めたが、1779年に機械化に反対する暴動でバークエーカーの新工場が破壊された。1810〜1817年頃にイングランド中部北部の紡績、織布業で起きた機械打ち壊し事件はラッダイト運動として歴史的に有名であるが、その運動の主体となったのは機械導入による失業や共同体の解体の脅威に晒された手工業者や労働者であった。
 エンゲルスの「イギリスにおける労働者階級の状態」(1845年刊)は産業革命期のルポルタージュの傑作であるが、そこには新しい機械が導入されるたびに労働者が多数失業していく状況が克明に描かれている。この本の中に「妻が紡績工場で働き、家で夫が家事をする主夫となっている」事例が挙げられていた。働く男性たちを取り巻く環境が大きく変わったのである。繊維機械の自動化によって熟練工は不要となり、力仕事もなくなった。残ったのは切れた糸を紡ぐ仕事だけである。そうなると指先の柔軟性があり、骨格の小さい女性や子どもの方が工場の労働者に向いている。しかも女性や子どものほうが低賃金なので、男性を雇う必要がなくなったのだ。機械の導入により何年もの修業期間で培った技術が台無しとなった男性たちの失望や落胆ぶりは凄まじいものだったであろう。彼らは技能への誇りや社会的地位を一瞬にして喪失した。その怒りによる機械の取壊運動は苛烈を極めたが、結果的に機械化の流れは止まらなかった。



繊維機械の発明による技術革新は、仕事だけでなく職人の誇りを奪い、彼らの生活様式、家族関係や価値観を劇的に変えた。そして私たちの現代においても、まさにAIによる技術革命が起きている。AIが雇用におよぼす影響については悲観的な論調が多いが、大事なことはAIに翻弄されず、AIをあくまで自分をサポートする手段と捉えたうえで、その活用をしっかりと考えていくことであろう。次回は蒸気機関について触れたい。

 

AI時代からの考察:「18世紀の英国で産業革命が起きた訳とは」[第2回]~2020年2月号

 気候変動対策の必要性が叫ばれる中で、2015年に合意されたパリ協定の実施を目指す国際会議COP25が昨年12月にスペインで開催された。この「パリ協定」の中に「産業革命」の4文字が次のように含まれている。「産業革命前からの世界の平均気温上昇を2度未満に抑えるために2020年以降、具体的に温室効果ガスの排出を削減することを義務付けされる」

 「産業革命前」に具体的な年代特定はないが、温室効果ガスの排出という意味では英国で石炭利用の蒸気機関が始まった1800年ごろが想定されるだろう。産業革命の時代は気候変動問題においても重要な起点となるのだ。
 その産業革命を推進した原動力の一つが当時の英国での急激な人口増加であり、そこには農業の革命的な変化が大きく関係している。

1.英国での急激な人口増加
 産業革命時の1800年ごろ、英国では人口が急増していた。どのくらい増加したかは、英国全体の統計がないので、英国の約半分の面積を占めるイングランドのケースで説明する。1981年にケンブリッジ学派リグリーとスコフィールドによって、全部で404の教会の教区から抽出した洗礼数と埋葬数をベースに近代以前のイングランド人口動態の復元が試みられた。そこから人口の推移は1701年500万人⇒1800年860万人⇒1851年1681万人と、急激な増加であったことがわかる。1800年から約半世紀でほぼ倍増したのである。17世紀までは飢饉、内戦などの要因に加え生活環境が極めて不衛生で、ペストなど伝染病がたびたび流行し、死亡率が高く人口増加も緩やかだった。ところが、19世紀に入ると労働者階級の生活水準の向上や、衛生改革により徐々に住環境が改善、平均寿命が劇的に伸びた。さらに医療技術の発達により死亡率が低下したことや、女性が早く結婚し生まれる子の数が増えたことも人口増加の要因と言われる。そうした急激な人口増加に対して、英国の経済学者マルサスが警鐘を鳴らした。
 1798年に刊行されたマルサスの「人口論」に「人口は制限されなければ幾何級数的に増加するが、生活資源は算術級数的にしか増加しないので、生活資源は必ず不足する」という有名な命題がある。人口増加はそれを養う土地の能力をいつか必ず追い越し、そうなれば悲惨な状況と大量死が待っていると予想したのである。この命題のメカニズムを一般にマルサスの罠と呼ぶ。

2.ノーフォーク農法
 人口が急激に増加する以前は三圃制輪作農法が主流であった。これは、連作障害を避けるために秋播きの小麦、春播きの大麦および休閑を組み合わせたものであり、12世紀ごろから始まった。この農法の下では、村落全体で共同して耕作が行われており、この形態を開放耕地制度と呼ぶ。この、三圃制では生産できる穀物の量に限界があり、農民は冬期間の家畜用飼料も確保できなかった。やむなく秋には貴重な羊や牛を食肉用に殺していた。
 ところが、1800年代の急激な人口増加に加え、フランスや米国との戦争で政府買付分として食料を確保する必要が生じたので、早急に農業の生産力を大幅に向上させ、食料の増産を図らねばならなかった。そこで生産性の高い農法としてノーフォーク農法が英国の各地で導入された。ノーフォーク農法とは17世紀後半からイングランド東部ノーフォーク州で始まった大規模農法である。同一耕地でカブ⇒大麦⇒クローバー⇒小麦を4年周期で輪作する農法であり、休墾地を置かない分だけ生産性が高い。クローバーやカブはあまり土地の養分を吸わずに成長するのに加えて、それらを家畜の越冬飼料に利用できるので冬期の飼育も可能となった。家畜の生育期間が延びたことで体が大きく成長し、家畜の平均重量は18世紀の間に倍以上になったという。さらに家畜の糞尿が肥料となり穀物の生産量も増大した。またカブは深く根を張ることで土を耕す効果があり、マメ科のクローバーは根にバクテリアの一種である根粒菌がつき、空気中の窒素を地中に窒素化合物として固定するので、土地が衰えるのを防いでくれるのだ。生産者としては良いこと尽くめなのである。17世紀の初めと比較すると、こうした農業の発達によって収穫量は約1.7倍に向上したといわれる。農機具も木製から鉄製へ、またさまざまな改良も加えられ生産性が向上し、結果として鉄の生産にも結び付いた。

3.農業革命と農村での経営形態の変化
 ノーフォーク農法の拡大と共に農業革命のもう一つの柱は第二次エンクロジャー(囲い込み)である。第二次エンクロジャーは1760年から1830年にかけて進んだ。ノーフォーク農法は、高度集約農業なので大規模農場が有利であった。そこで、貴族などの大地主が、議会を主導し立法化することで、これまで共有地として用いられてきた土地を次々に囲い込んで私有化した。その結果、英国の耕作地の約20%が囲い込まれ、1830年代には共同利用していた開放耕地制度はほぼ消滅したようだ。農業の生産力が大幅に増大した一方で農場の経営形態は変容したのである。
 農場の規模を大きくするほど有利なので、貴族階級の地主は大土地所有権を強化した。それらの地主は、今までのような自営農業者ではなく、高い地代が得られる農業資本家(借地農)に農地を貸した。囲い込みで土地や職を失った農民は、そのまま農場の賃労働者となるか、都市部で勃興した工場労働者となった。農村は大地主・農業資本家・農業労働者の三分割制の経営形態となり、農業の資本主義化が進んだのである。

4.都市への人口流入と社会構造
 このように自営農民が都市へ流入したことによって、1700年頃は農村部に住む人々が全体の75%であったが、1800年には36%、1850年には22%にまで急激に低下したという。そのうえ人口の増加状況には偏りがあった。マンチェスター、リヴァプール、バーミンガムのような中部や北部における新興の都市で急激に増加した。このように急激で歪な都市化は、都市のスラム化など英国社会にさまざまな弊害をもたらすことになった。
 しかし没落した自営農民が産業革命における労働者の重要な供給源となったことで、都市においては、工場を経営する資本家(ブルジョアジー)とともに、その工場で働く大量の労働者という新しい社会階層を出現させた。そして、地代で蓄財した地主や産業資本家は、本来なら政府が行うべきインフラ投資を積極的に行った。彼らの資金が運河建設、有料道路、港湾などの輸送事業に投資されて輸送インフラが改善した。そのおかげで、輸送の利便性が増して、商取引が一層活発化されるという好循環が生まれたのである。



 英国は、半世紀で全人口が倍増する中で、同時に農業人口比率を低下させつつ、増大する非農業人口に安定的に食料を供給できた。このような離れ業が可能となったのは、産業革命と人口増加と農業革命が絶妙なタイミングで同時に起きたことにより、食物生産の状況と商取引が大きく変化したからである。産業革命によって、工業化が進み、製品を海外に販売することで、世界中から食物の輸入が可能となり、1850年頃は穀物必要量の6分の1を輸入することができた。「マルサスの罠」を超越する食料確保が可能となったのである。
 英国の産業革命時で没落した自営農民が工場労働者となったように、AI技術の進展によって職を失うと予想される非熟練労働者に雇用機会を創出することが、今後日本が直面する課題となろう。それらの解決にはAI、IoTや5Gなどの技術革命分野だけではなく、さまざまな革新的な要素が多分野にわたって進展し、同時かつ複合的に絡まることが必要だと思われる。産業革命時の資本家たちのように将来を見据えて積極的なインフラ投資をするだけでなく、時代に即して私たちの社会構造全体が大きく変容することが要求されるのだ。

 次回は、織機や蒸気機関などの技術革新やその前提となる資本蓄積について取り上げたい。

追記:
 先般2018年製作の映画「ピータールー マンチェスターの悲劇」(マイク・リー監督)を観た。1819年8月16日の英国マンチェスターでの惨劇を映像化したものである。選挙権を求めて、セントピーターズ広場に集まった多数の民衆が虐殺されるにいたった悲劇を忠実に再現した。映画では産業革命当時の社会状況や労働者の生活ぶりが窺い知ることができて興味深い。

 

AI時代からの考察:「18世紀の英国で産業革命が起きた訳とは」[第1回]~2019年12月号

 私たちは現在、第四次産業革命の最中にいると言われる。これから、私たちの暮らしはどのような変貌をとげるのだろう?
 18世紀、英国発の第一次産業革命は水力や蒸気機関による工場の機械化とされ、第四次産業革命はIoT、ビッグデータとAIに代表される自律化と定義されるようだ。ちなみに、第二次産業革命は電気エネルギーに代表される大量生産であり、第三次産業革命はコンピューターに代表される自動化である。
 これらの定義は、発明・発見といった技術的な側面に重きを置いたものだ。しかし、産業革命の成立要件は技術革命にのみ依存するものではない。
 労働、金融資本、消費、流通、居住、農業、そして政治などの変化が複合的に絡み合うことで変革が達成されたのである。
 では、その変革の成立要因とは具体的に何であろう?
 具体的に要因を探るには、英国の産業革命時の社会情勢などを丹念に辿ることが必要だ。
 世界に先駆けて、英国で産業革命が発生した理由も併せて紐解きたい。
 歴史は未来を予言することはできないが、将来の行動のために有効な一般的な指針を提供してくれると言われる。
 現在と18世紀では時代が随分と異なるので、参考になるのかとの意見もあろうが、人間の行動・心理面を含めて多面的に産業革命を探究すれば、現代への指針を導き出せるのではないかと考えた。
 そのことが本稿を始める動機だ。
 今回をスタートとして、英国の産業革命に関するテーマを複数回にわたり考察したい。

 今回のテーマは「歴史と産業革命に対する捉え方」である。少し堅いテーマだが、今後進めるにあたっての私の基本的な考えを若干述べたい。
 まず、一つ目のテーマの「歴史の捉え方」。
 勿論、人により歴史認識はさまざまである。
 私は、理事長就任の挨拶文の中で引用したE.H.カーの言葉を大事にしている。
 英国の歴史家E.H.カーは『歴史とは何か』(岩波新書)の中で「歴史とは現在と過去との対話である。現在に生きる私たちは、過去を主体的に捉えることなしに未来への展望をたてることはできない」と論じている。
 歴史は単なる過去にあった事実ではなく、自己の立場を正当化する手段として歪められる場合が多い。なぜなら、歴史は勝者によって描かれたり、その時々の政治の事情や都合によって書き換えられたりする。
 そして、新たな史実の発見や技術的な進歩による科学的知見の積み重ねがあると漸く歴史的な評価が変化する。

 イタリアの哲学者クローチェは「もともと歴史とは現在の眼を通して、現在の問題に照らして過去を見ることで成立する。歴史家の主たる仕事は記録することでなく、評価することである」と述べている。故に「評価した歴史家を先ず研究せよ」と言われる。足利尊氏の毀誉褒貶は時代によって変わった。
 私たちが過去に学校の授業で習って、絶対的だと信じていた歴史の事象がいつの間にか変わってきている。鎌倉幕府の成立年号は今や1192年ではなく1185年らしい。
 NHKの「英雄たちの選択」や「歴史秘話ヒストリア」などの歴史番組を視聴すると、敗者が後に極悪人と記述される事例や新しい科学的発見などにより新事実が判明する事例がしばしば取り上げられている。科学は普遍的であるが、歴史は個別的なのであろう。
 そして、人間は今の世の中が暗いと思うと将来を悲観的に捉える傾向がある。昭和の高度成長期には輝かしい未来を夢見ていたが、少子高齢化の現在は「日本の未来は厳しい」と嘆く人が多い。
 詩人ゲーテの言葉に「時代が下り坂だと全ての傾向が主観的になるが、現実が新しい時代に向かって成長している時は、すべての傾向が客観的になるものだ」とある。
 昔から、先行き不透明な時代においては、過去を主観的に捉えがちである。
 E.H.カーは「過去の諸事件と未来の諸目的との対話においては、過去に対する建設的な見方が必要」と論じている。第四次産業革命の到来による輝かしい未来を展望して、過去の事実を客観的かつ主体的に捉えることが求められる。

 今回のもう一つのテーマは、「産業革命の捉え方」である。
 さて、産業革命と名付けたのは誰なのか?名付け親の一人は、フランスの著述家アルジャンソン侯。T.S.アシュトンの著書「産業革命」の中で産業革命という言葉を作り出した人物とされている。
 他には、フランスの経済学者J.A.ブランキが1837年に使用し、その後1844年にF.エンゲルスが広めたとされる。学術用語としての産業革命は、経済史家アーノルド・トインビーが自身の著作の中で使用したことで定着した。(このアーノルド・トインビーは 英国の20世紀最高の歴史家アーノルド・J.トインビーの叔父にあたる)

 経済学者達の産業革命に対する捉え方はさまざまである。
 まず、トインビーは理想主義的な社会改良主義の立場から「産業革命は、多くの貧困者が出現した原因である」と悲観的に捉えた。
 そうした捉え方に修正を加えた本が先述のアシュトンの著書「産業革命」である。彼は、「英国における産業革命の惨禍の原因は技術的変革や経済組織の変化だけではない」と論じた。彼はこの著書の中でジョージ三世の即位(1760年)からその子ウィリアム四世の即位(1830年)に至る間の英国社会の変貌を非常に詳しく記述している。
 その後、20世紀に入ると米国の経済学者W.W.ロストウが米国経済の繁栄を背景に「産業革命は豊かさの出発点である」と唱えた。彼の著書「経済成長の諸段階」(1960年)の5段階説では、産業革命時期を経済成長への離陸に向けたものとして前向きに捉えている。
 さらには、1985年に経済学者のN.クラフツが産業革命期の英国経済成長を研究して従来の高い成長率を下方修正した。その結果をもって、「産業革命は存在しなかった」との産業革命否定論が出現した。
 世界の工場としてパクス・ブリタニカを謳歌していた英国が「ヨーロッパの病人」あるいは「不満の冬」と呼ばれる深刻な経済停滞に陥っていたことが否定論出現の理由の一つであろう。のちに、その打開策として、鉄の女サッチャー首相の改革が登場するのだ。

 こうして、トインビー、アシュトン、ロストウ、クラフツなどの産業革命に対する捉え方を比較すると、その人によってだけでなく、各々の時代背景によっても変化することが分かる。
 歴史の面白さは歴史的事実を基に、どう自分の想像力を膨らますかだと思う。さまざまな歴史の出来事が世の中の触媒として、どう作用したのかを自分なりに仮説を立てることができれば本当に楽しい。
 私にとって、高校までの歴史科目は年号や出来事を必死になって暗記するイメージが強く、正直苦痛だった。今から省みると、本当に勿体ない話だ。

 昨年の暮れから「承久の乱」という同じタイトルで2冊の新書が相次いで発刊された。
 その新書は坂井孝一氏と本郷和人氏によるものであるが、双方を読み比べてみた
 歴史の捉え方という面で、後鳥羽上皇、北条義時、鎌倉幕府などに関する両者の視点や主張の違いを比較するのは大変面白かった。

 最後になるが、スペイン、オランダ、フランスなどの列強国ではなく、欧州の片田舎にすぎなかった英国において「何故、最初に産業革命が起きたのか」という歴史事実は非常に興味深い。
 次回は、英国第一次産業革命成立の前提条件として、まず人口面と農業面から、アプローチしたい。